算術師の、何だかそんなもの。
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移転しました。

算術師です。


唐突ですが、アメーバブログからはてなへ移住しました。


算術師の、何だかそんなもの。

URI:http://d.hatena.ne.jp/calculator/


今後はてなをメインにこそこそやっていこうと思っています。

皆様以後良しなに願います。

人生は動詞か形容詞か?

算術師です。 レポート期間が迫ってきて大慌てです。 取り敢えず、出すものさくっと出して気楽にやっていけるようにしてやりたいなと思います。





さて、今回は人生の意味とやらについて考えてみたいかと。


人生の意味に対する議論なんてありふれていて尚且つ多岐にわたっているので、方向性を示すために個人的な昔話(体験談と言うほうが正確そうですが)を引いてみたいと思います。


 ■昔話開始■

 私がまだ大学に入ったばかりの頃、とある宗教系のサークルに勧誘を食らいました。

・勧誘用マニュアルがある

・勧誘段階でいきなり「人生の目的って何?」とか言うテーマをぶち上げる。

・サークル名を言わない

・新入生に対して常に1対多数で接触する


とまぁ、怪しげな要素満載だったので流石に「あー。宗教系だな。確実に。」と思いました。

で、何を考えたのか(10中9~9.5くらいは議論好きの性のなせる業でしょう)この連中を論破してやろうと思い、のこのこついていくことにしました。


彼らの言い分は、ちょっと長めに要約してしまえばこんな感じでした。


「人生には目的がある(それについては後日洗脳合宿で説明していく気だったらしい)。

目的を喪失しているから人生がつまらなくなるのだ。

生きることには常に死を背にしていることである。

それを悟った上で生きる時間を人生の目的を実現の為に投入するのが所為の本来の人生の意義だ。」


…なるほどな、とは思いました。彼らが「仏教って素晴しい」とか繰り返し発言してなくて、尚且つ過剰な演出と威圧的な意見の強要とにじみ出るカルト臭さが無ければ素直に頷けそうな内容ではありました。


私は、このような見解の元反論しました。


「人生には目的なんて無い。

人生は単純に人生であって、目的が存在するから生きている訳ではない。

私たちは単に「生きている」だけだ」


まぁ、昔のことなのでちと練り込みの足りない思考です。結局彼らとは合計6時間くらい討論したのですが、相互理解には至りませんでした。


後で思い至ったのですが、彼らと私の思考が完全に食い違ったのは要するに人生を「動詞」と捉えるか「形容詞」と捉えるかの差だったのだろうと、そう思いました。


■昔話終了■


さて、自分って無謀な行動大好きだったんだなぁ とかどうでも良いことはさて置き、話を続けましょう。


人生とは本来的に「動詞」か「形容詞」か? 要するに本来の目的が存在して、その目的の実行の為に人は生まれてきているのか? それとも単純にそう言う状態が付与されているだけなのか? 見解は人に拠るでしょうし、また見解が分かれたとて追従の仕様も無いのですが個人的には私たちは何の必然もなく生まれてきたのだろうと、そう思っていますし、動詞形容詞の話で言うならば人生は形容詞だと思っています。


いえ、正確に言えばそうでなくては不都合であると思っていると言うべきでしょうか。


人生に目的がある…もっと正確に言えば人生に生得的な目的が存在する、とすればそれを設定した何者かが居る事になります。(目的は評価対象が存在しなくては目的たり得ませんから)つまり、そこには宗教で言うところの神…それも造物主に値する存在が存在し、本来の目的達成の為に私たちを動かしている と、そう言う構図が生まれてきます。 これはかなり不都合です。


世界を認識し、意味を規定する存在である自我が、自我自身に意味を規定できない(つまり既に他者により規定されていて、尚且つ変更権限が無い)なんて、どれだけ好意的で高尚な存在意味を定義されていても非常に絶望的だと思います。操作も受け付けず、交渉の余地も無いのですから。


要するに、自分の存在事由くらい自分で規定したいと、そう言うことなのでしょう。




ちょっと纏まりがつかないのですが、私自身が纏めきれない状況なので明日以降に続きます。

大変申し訳ありません。


パッケージ化される社会

算術師です。

鬱々と、しかし色々と作業しながら今日も生きてます。






さて、久方ぶりの更新で文章の書き方を覚えているのかも怪しそうですが気にしてはなりません。


今回は、『パッケージ化される世界』と題してちょっと社会批評でも。本当はfer-matさんのBlogこの記事 からちょっと思ったことを整理していったらかなり元記事から乖離してしまった風なのですが…気にせず書いていこうと思います。

 





さて、現代はそれまでの時代に比べ、とても便利な時代です。


便利とはどういうことかと言えば、要するに要求に対して投入すべきコストが低いと言うことに他なりません。…と、一言で言い切ってしまっては見も蓋もありませんので具体例を示したいかと。


例ば、水がどうしようもなく飲みたくなったとします。となると私たちが取るべきは蛇口を探して、それを捻る事です。それで概ね事足ります。まぁ、コップに水を一旦入れるか蛇口から直に飲んでしまうかは意見が分かれそうですが。


言うまでも無いですが、かなり便利です。水を求めて清流を探す必要も、井戸から水をくみ上げる必要も、その他の種類の多大な努力を支払う必要もありません。


蛇口と、それを維持している給水システムに「ちょっとお水頂戴ね」とやるだけで良いのです。 給水システムがどうなってるかなぞ、考える必要もないのです。もし給水システムについて考える必要性があると場合があるとするなら、それは給水システムが何らかの問題を抱えているときに他なりません。寧ろ、浄水場や給水機構について深い理解がなければシステムを使うこと適わないなんてシステムは問題があると言えるでしょう。


要するに、私たちの社会は何だか仕組みも原理もさっぱり解らないけど、要求を与えればそれなりに要求どおりの結果を与えてくれるシステムが一杯です。冷蔵庫・洗濯機・パソコン・電車・自動車・商店・工場・市町村・国家…どれを取っても詳細な構造やら原理やらなんか知らなくても動いてますし、私たちは直接間接のあらゆる手段でこれらに要求を与え、応答として結果を得ます。家電製品なら電力と操作する労力とを、経済活動なら金銭や労働力を要求を与える媒介として用いるわけです。


私たちの社会とは巨大なブラックボックス(機能の実態は積極的にでないにしろ隠蔽されている)の集合体である ということです。実は見慣れていると言うだけで、実態不明な得体の知れないものに私たちの生活は依拠しているのです。要領が良いとは、つまりブラックボックス群の操作にどれだけ熟達しているか、と言うことに他なりません。


何か良く解らないブラックボックスを毎日操作して生きているいる私たちが感じるのは、現代社会を語る上での常套句ともなってる「自己疎外」です。私たちは自分の意思で行動しブラックボックスを通じて世界を操作しているつもりが、逆にそのブラックボックスに入出力を与えるブラックボックスに一つなのではないか? 実はそこに個人の意思なんてありはしないのではないか? という疑念に駆られるわけです。


批判的な意味で良く用いられる「優等生」というのは、自分がブラックボックスに囲まれていることに疑問を感じず、逆にブラックボックス側の要求案件を実行すること(進んでブラックボックスになろうとすること)が妥当だと考える人々のことと言えるでしょう。


さて、このような話題を持ち出すと結構な頻度で出てくる「過去にはそんな問題は存在しなかった。近代化が問題なのだ。この問題を解決するには時代を逆に戻す必要がある」といった趣旨の見解をこの喩えで語るならば、「過去はブラックボックスの占有体積が小さかったので問題が表面化しなかった。ブラックボックスの体積が肥大して使用者を圧迫ているのが問題なのだ。ブラックボックスの占有体積を低減させる必要がある」と言ったところでしょう。


この見解、趣旨は妥当でも非現実的です。ブラックボックスに囲まれた生活が嫌いだからと言って、私たちは森に帰る訳には行かないのです。少なくとも私はブラックボックスに不具合が多いからと言って、排除して森の動物と格闘して生きるなんざ御免です。ブラックボックスに圧迫されていると感じる人たちは、どぞご自由に自身の周りのブラックボックスをリストラしてください。努々世界がそうあるべきだとか、そう言う発想で行動されないよう。


ではこの問題を如何に解決するか? 解決策は複数あります。人口に膾炙されているものとしては、こんな物があるでしょう。


■「得体の知れなさ」を低減する


要は権威の利用です。得体の知れないブラックボックスに操作されているのではなく、信任の置ける機構が指示を出しているのだ と摩り替えることで自己疎外を低減させます。

問題は、権威が信頼されていなければ結局無意味であることにあります。過去に利用されていましたし、これからもそれなりに利用されていくでしょう。何よりシステム運用サイドから見ればかなり便利です。


■ブラックボックスを操作している実感を与える


言ってしまえば巨大なコミュニティーを小規模なコミュニティーに解体していくことを指します。操作している実感が乏しい割に、操作要求が多い気がする ことが問題であるので操作に対するレスポンスを適正化してやれば良い、と言う見解です。

2chに人が群がったりMMOやらMixiやらBlogやらが流行ったりするのは正直この解決策意識しないうちにを志向しての事ではないかなと思います。


■ブラックボックスの調整


ブラックボックスが個人に要求する事項の水準を下げる方式。しかし、これは自己疎外の裏返しの「ブラックボックス(社会システム)=個人に対して圧倒的に強力で不寛容」というある意味過剰な認識が根底にあると思います。まぁ、ブラックボックスの占有体積が小さい頃に作り出された社会システムやら認識やらはそろそろ時代遅れだとおもいますし、一般に解決策として与えられているシステムもかなり時代遅れな気もしますが。ドラスティックな解決策は実用性が疑問です。

曲がりなりにもそれなりに上手く運用されてきたシステムの代替策なんてのは、中々構築するのは難しいもです。実践されるとしたら、ブラックボックス一つ一つを少しずつ改善していく方式になるでしょう。


まぁ、以上一般的な思考を書き連ねて見ましたが…解りづらいかもしれません。何しろ一般的には社会思想として表出している事項ですから。比喩的に論っていると言うと実態を個人的にはコミュニティーの分解と並行してこんな物を提案します。


■事実として受け入れる


諦める とも言います。社会システムが私たちを操作しようとする(フィードバックとして)のは仕方が無いので、世界がどのように私たちを操作しようとしているか(或いは、どのような形で私たちを保護しているか)をそれなりに理解した上で、自己の目的の為にシステムを利用する態度を取る。

踊る阿呆にはなりたくないが、踊らざるを得ないなら楽しく踊ろう とでも言った感じでしょうか。尤も、問題なのはシステムを利用するための手段が非常に限られるわけですが…。


■世界の拡張またはヒトの機能拡張


まぁ、これは夢物語です。

世界が手狭になり、尚且つ私たちの手では操作も叶わない状況ならば、いっそ私たちの手で比較的容易に操作できる世界を構築してしまえば良いのだ、或いは世界を容易に操作できるように私たちを拡張すれば良いのだと…。

本当に夢物語です。 …心惹かれるものはあるんですがね。如何せん実現手段がありません。

RPGとかって、拡張を疑似体験する一手段なのかもなぁ…とか、どうでも良いことも考えてみたり。

類似する言語装置として、「天才」だとか「優秀」だとか言ったものがあります。私は拡張された存在なのだ、と認識することで自己疎外を希釈する装置が。


どれが実効性能が高いか、どれがコストパフォーマンスが良いか検証できれば良いのですが…如何せん主観なのでどうにもならないと思います。投入コストの問題から、世界を変えるより、世界を切り分けたり受け入れたりするほうが有利かな とは思いますけどね。


まぁ、過渡期だからかもしれませんが社会システムに制度疲労が結構来ているのは事実だと思います。

「得体の知れないもの」に操作されている感覚を遮蔽する偽装システムに致命的な問題が発生していると言うべきかもしれません。だからこそ結構な割合のサラリーマンは愚痴ばっかりで、「社会は厳しいんだぞ、理不尽なんだぞ」と夢見がちな若者に説教するのでしょうし、諭されると「お前に何が解る!!」とか言って切れるんだろうなぁ…と、どうでも良い事を思い出しました。

一月ぶりの更新。自信について。

算術師です。


皆様お久しぶりです。


何も言わずに更新が止まり早4週間…実質1ヶ月な訳ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか?


私は…平たく言うと思いっきり欝でした。状況と内容は4月冒頭の日記 (注:非常に痛いです)と大差ないようです。進歩が無くていけません。


掃除に洗濯に読書に学校の課題に試験対策に……と、「普通の人が当たり前に出来るやらないといけないこと」が認識上「非常に実践が困難なこと」に摩り替わってしまっていて、尚且つ「普通の人が当たり前に出来るやらないといけないこと」であるという認識に振り回されているといった感じでしょうか。


要するに「やらないといけないこと」に対して処理能力が追いつかず、実はこんなの処理するの絶望的なんじゃないかと思ってしまっていて、更に追い討ち掛けるように「こんなのできて当然だよね?」といった感じの自責を掛けてしまって容赦なく凹んでいた といった感じでしょうか。心療内科への受診を進められて居たりもしますが、少しだけ様子を見ながらやっていきたいかと。


記事が書けなくなってる時点でより悪化してたわけですが、それに関して気にしてはなりません。寧ろ気にしないで下さいお願いします。 ともあれ、状況の打開には「出来て当然のこと」を実際に実行していくことが高確率で有効でしょうので実践していきたいと思います。






さて、そんな状態で一杯一杯だったわけですが、改めて考えてみると劇薬 ぶち撒けながら何で○○でないんだ!! ■■は××でなければならないのに!! なんて考えは自我が無用に拡大した冷静さを失った思考であるとか言っていた割に自分自身に対しては


何でこれくらい普通に出来ないんだ!! 私はこんなに無能であってはならないのに!! 


と自分を大上段からばっさりと断罪していたのを発見して中々複雑な気分に。


何でしょう。自分自身の挙措に対して期待をすることはある意味最低線だと思います。安っぽい文言じゃありませんが、自分を信じられない者が他の何を信じられるでしょう? 個人の身体・意識はある意味その人の固有領土なのです。その固有性を疑う事は、ある意味個人が個人であることを放棄することであると言えるのでは? とさえ思います。


とは言え私たちの体は経年劣化していきますし、不慮の事故や病気によってその機能を失ったり損ねたりします。身体を固有領土に喩えるならば、さながら洪水や地震や火災といった天災に相当するでしょう。ハードウェア的な損失であるともいえます。


では、意識の機能を損ねる場合(事故により物理的に意識機能が損傷される場合を除く)は何に相当するか? これは正に人災ないしは制度疲労の産物と言えましょう。要するにソフトウェアの問題です。 では何が制度疲労を生み出すか? 簡単に言ってしまえば意識の外部との格差です。此処で言う外部とは、意識を基準にした外の世界…要するに意識が情報を受け取り、分析して吐き出す対象のことであり、具体的に言えば私たちを取り巻く世界であったり知覚が構築する世界であったりします。


この格差が生み出す制度疲労ついての議論は、5月3日の記事3月10日の記事 に関連した記述が残っているので今回はそちらを参照していただくとして、本論へ。 以上のハードウェア的・ソフトウェア的な特性により自分自身という道具は良くも悪くも多くの場合で自己が期待する通りの性能を発揮してくれません。また、因果関係を掴むにはかなり複雑な存在です。


この面倒なツールの運用態度として無難なものはどのようなものか? …言い換えればどれだけ自分の能力に自信を持ってよいか? と言う話になりますがこれは難しい問題です。自信無しには何も出来ず、自信過剰は挫折時の問題と対人的に高圧的になりやすい問題があるので無難を言えばバランスを取ってといった所でしょうか。


個人的には自信が無くて挫折しても自信があって挫折しても結局被害は大して変わらないので、自信を持つことが悪いとも言い切れないところがあります。問題は対人面で高圧的になりやすい点と、視野狭窄を起こしやすい点にあると言えるでしょう。


とは言え、この問題はその人物が自分が高圧的だったり視野狭窄を起こしていたりすることについて自覚できないことに本質があるわけで、運用方針自体が問題であるのという訳ではなさそうです。要するに、4月17日の記事(注:劇薬入り) にて粗方語っているのですが、傲慢である自分に対して無自覚な自分について時々でよいから省察することが望ましいと言えそうです。


まぁ、傲慢だったり高圧的だったりする人間は概ね自分が高慢であることで不利益を被っているとは思っていないので、そう言った省察を自らに課すことは難しいでしょう。周囲に指摘されても難しいかもしれません。実際問題、それが害だと思いさえしなければなんら問題は無い訳ですから省察の必要なんて皆無でしょう。無論、それから致命的なしっぺ返しを頂く可能性もありますが…。


となればどのような態度が望ましいか? 個人的には自信過剰にならない(弊害が発生しない)程度なら自信を持つのは悪いことでないし、寧ろ賞賛されてしかるべきと思います。まぁ、何故こんなことを言い張るかと言えば、欝の所為なのか自信が持てない状況が続いている(寧ろ悪化傾向なのかもしれません)ので自信回復したいが為に自己肯定できそうな材料を探しているのも一つの理由なのでしょう。


そう考えると中々この病も根が深いものです。

うーん…。

算術師です。


腰痛軽減とその他諸々のため、そして資料を捜し求めて、あとは課題に忙殺されてPCから離れて(課題はPC向かわないと出来ないんですけどね)こそこそと活動していました。


腰痛はそれなりに治まったのですが、資料読んで手勉強不足を実感したり課題の難易度の上がり具合に愕然としたりしていました。


久しぶりに普通な週末を迎えられそうなので、週末に纏めて更新できれば良いなと思っています。

Blog界隈を遭難してみる(気付けば東大編)

算術師です。

レポートがそろそろ本格的に始まってきて戦々恐々状態です。

取り敢えず、週末中のメール提出が1件。来週に1件。早々に始末しておきたいと思います。




さて、11日の日記 でも述べましたが、あちこちのBlogをレポート処理しながら見て回ってました。


そのBlog巡りの最中に中々興味深いブログを発見したので軽く紹介を。


崩壊家庭地方不良校出身東大法学部生の意見


タイトル通りの内容で、Blog主のfer-matさんは相当過激です。結構なPv数を叩き出してますから、ご存知の方も居るのではないでしょうか。


一番面白かったのは、スタンスが私と完全に逆なところ。ここまで正反対な人っているんだなぁ…と、妙に感心したりしました。


東大生的知的生活


こちらは柔らかめの語り口のscherzo_xenonさんのBlog。柔らかめとは言え、fer-matさんと比較して柔らかめ なので注意が必要かも知れず。中々興味深い考察をしていらっしゃいます。


さて、こんな感じで書いてみたは良かったんですが、どっちも東大生という状況。そう言えば、SNMRさん も東大生だし、何だか関わった先関わろうと思う先悉く東大生という素敵な状況。アンテナの張り出し方が偏ってしまっているのか、東大のブランドが偉大なのか(東大 とつくと興味惹かれるところはあるのでしょう)…未だに判然としないところです。


取り敢えず、もう少しアンテナの張り方を考えたいものです。


勉強しないと…。

算術師です。


寝たら授業に絶対出ないと思って徹夜で起きてたのは良いものの、何だか既にへとへとです。

本末転倒を実践してますね…。

散々Blogを書きなぐったお陰で自分の広げているアンテナが如何に狭いものであるか、自分の保有している知識が如何に浅薄であるかを再認識している今日この頃です。取り敢えず、図書館漁って何とかしようかと。取り敢えず、哲学と量子力学に関連する領域から手をつけていきたいと思います。


やはり原文を読むことも大事だろうと、そう思う今日この頃です。




さて、生存報告もしましたし、そろそろ身支度して大学の図書館行ってみようと思います。2限始まりなので、1限を私に読めそうで、必要と思しき書籍の発掘作業と検証に充てたいと思います。

議論への個人的な感覚について。

算術師です。

PCに向かってる時間が長かった所為か、どうも腰が痛くてなりません。

レポート作成とか諸々で今後もPCに向かい続けないといけないことを考えると一回整体とかに行くべきかもしれないなと思います。


最近抽象的な、それも私にとってはかなり敷居の高い議論ばかり取り扱っていて食傷気味です。閑話休題的に凄く具体的な、そして個人的な話をしたいと思っています。




さて、唐突ですが私はかなり議論好きです。


…いや、それほど唐突でもなんでもないかもしれません。

何しろこんな初稿 でBlogを始めてしまう位ですから。


まぁ、実は政治系議論をやる気満々だった訳ですが、その後哲学系の議論について個人的に盛り上がってしまって今に至ってます。正直連休中の記事 で、政治系議論がそもそも危険を孕んでいる(議論の破綻に陥りやすい・論者の自我が肥大しやすい)と述べましたが、活発に行われている議論を見るに羨ましくなってしまっている自分が居ます。


やはり隣の芝生は青いだけなのでしょうか…。自我を肥大させたい欲求に駆られていのかもしれません。


ま、政治系の話は別にエントリを起こすことにするとして話を本線(議論好き)に戻します。


昔私はかなり攻撃的な人間でした。まぁ、それ自体は色々必要性があっての攻撃性だったと思っては居ますけど。例を挙げると、自称革命の戦士な社会科教師と2時間1対1で議論したり、校則に不服申し立てして担任と延々3時間討論したり、生徒総会潰したり 、サークルの勧誘を装った宗教団体にわざわざついて行って夜の9時まで延々議論していたこともあります。


某宗教団体に関しては、「人生は動詞か形容詞か?」(つまり、人生は目的を達成するための手段であるか? 「生きてる」という状態なのか? という2択)という非常に素敵な論題を頂いたのでその点感謝しております。これに関しては、いずれエントリ起こしたいですね。


それなりに攻撃性が薄まった(と本人は勝手に思っている)今でも、議論のための議論が大好きで、論破するのが好きなのは今も変わりません。議論相手の思考を誘導することに少なくない喜悦を感じますし、論破した対象に優越感を感じるのは望ましくない性向なのかもしれません。


しかし、同時に議論を戦いの道具としてでなく、コミュニケーションの手段として求めている自分が居ます。 普段他の人とする会話は、多分に儀礼的で会話すること以外の目的を伴うものです。会話以外の目的を伴わない会話も勿論ありますが、所詮は雑談です。相手と話題とに真摯に向き合ってする類の会話ではありません。 無論雑談を否定するわけではありませんが、いささか食傷気味なのも事実です。もっと話題と話し相手に対して真摯な会話がしたいのです。これが議論にあるのではないかと、そう思っています。

お知らせ 2

算術師です。


輪講では予想に反してこってりと絞られました。1時間延々質問責めとか正直厳しいなと思います。


週末は来週提出の課題とかをそそくさとやっておこうかなと思っています。





さて、お知らせです。


カウンタとアクセス解析をこっそり設置してみました。

意外と面倒で手間取りましたが、中々満足です。


まぁ、こう言う自己満足っぽいアクセサリを投入してしまうと無駄に自我を肥大させる契機となりそうですが、気になっていた事もあるので多目に見てやってください。


執着について。

算術師です。


連休ももうお終いです。翌日から5限授業とか正直止めてほしいものです。


記事を微妙に分類整理してみてますが、整理の良い案ありましたら意見頂けるとうれしいです。


昨日偉そうに品質保証とか言った割に、結局記事をあーでもないこーでもないと弄った結果は大した物ではありませんでした。何というか、文才が欲しいと頭の中の思考を明快に表現できる表現力が欲しいところです。






さて、やたら小難しい内容になってしまった3日の記事 ですが、今回はその補足です。


3日の記事 では、大体こんな感じなことを言っていたと思います。 人間は自分の影響力の及ぶ範囲を拡張しようと言う潜在的な欲求を持っており、自分の期待する影響範囲に実際の影響範囲が満たない状態を不満として認識し、自分が本来備えているはず(少なくとも本人がそう思っている。実際はどうでも良い)の影響力が失われたり奪われたりする状態を怒りとして表現し、自分の影響範囲外に魅力的な影響力⇔手段の系を発見すると欲望を掻き立てられる訳です。


要するに、私たちは多くを世界に期待したり、自分の行動結果に期待したりしますし、そうやって期待することで自己を肥大させてしまいがちです。だから、よく省察して自己をいたずらに肥大させることを避けましょうね ということですね


 とは言え、一切の要求を捨て去ってしまったりするのはやはり望ましくないでしょう。


私たちは色々なことに翻弄されて生きています。それはお金のことであったり、人間関係のことであったり、勉強や仕事のことだったりします。それらはやはり私たちにとって大事なこと(生活に関わる事ですから)でありますし、執着できると言うことはとても大事なことだと思います。


何かに執着する、何かを大事だと思う、何かを欲しいと思うと言った心理は個々人の活力となりますし、そう言う存在なしの人生はとても無味乾燥なものであると言えるでしょう。更に言えば、徹底して無関心を貫きたければ私たちはこの世界から去らなくてはならないのではないかとも思います。


ただ、ある事に執着しすぎて周りが見えなくなってしまったり、自己を肥大させて高圧的に振舞ったりして色々なものを失う危険性は避けて欲しいですし、自分でも回避したいなと思っています。


ですから、時間が空いててふと気がついた時にでも(本当は何かで余裕がないときこそそうして欲しいのですが)「実は自分が拘ってる事って突き詰めればどうでも良い事なんだよなぁ…。」と思えれば良いなと、そう思います。


何かに執着することが問題なのではなく、執着の結果その「何か」に囚われて視野が狭まることが問題なのでしょう。





蛇足:


3日の記事 の内容を人物Aに対する数式として表現するならば、以下のとおりになると思います。


X:人物Aが実際に世界に与える影響

A(Act):A自身の行動の結果・影響を表現する関数

→Ex. A(呼吸する)=酸素の減少・二酸化炭素の生成 等

E(z):人物Aが行動zにより得られると期待する影響力と、周囲からの反応

B(Act):A以外の影響力を行使できる主体の影響評価関数

→他人の行動結果から自然災害までを含む。


但し、全て客観判定でなく主観である。人物Aの主観である。


X = A(Act) :行動結果=影響。基本式です。


E(A(Act)) ≒ X のとき、Aは安定か満足な状態。

E(A(Act)) > X のとき、Aは不満な状態。

E(A(Act)) < X のとき、Aは困惑した状態か安定な状態。


このうち、不満な状態のとき以下の条件判定が成り立つ。


E(A(Act)) > A(Act) - B(Act) かつ、A(Act)) << B(ACT)

とAが推測するときAは理不尽だと感じるか諦める。


E(A(Act)) > A(Act) - B(Act) かつ、E(A(Act)) ≒ X とAが推測し、かつ

A(Act)) << B(ACT)でないときAが推測するときAはBに対して怒りを感じる。


E(A(Act)) > A(Act) かつ、E(A(Act)+A(Act')) ≒ X

とAが推測し、Act'が未実行の場合(実現不可能な場合も含む)

AはAct'への欲求を駆り立てられる。


大分すっきりと記述できました。何だかプログラムの条件判定文みたいになってしまいましたが…。

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