議論についての議論を始める。 | 算術師の、何だかそんなもの。

議論についての議論を始める。

さて、ある東大生の一日 のBlogさんはどうやら終息した模様。まぁ、関連Blogの一種だったこのBlogも人の入りが悪くなってきました。

まぁ、更新しろ 話はそれからだと言われそうですが。
それはそうと、このAmeba Blog、使い勝手が今一微妙です。いや、私がどん臭いだけなのかもしれませんが、記事を書き終わった頃には自動でログアウトされてしまってます。…遅筆なんでしょうね。多分。

まぁ、遅筆な人用に対策(ログアウト時間設定できるとか)してくれれば良いんですがねぇ…微妙でしょうか。

さて。今回は議論で必ず問題になる、意見の正しさ。これについて個人的な意見を述べてみたいと思います。




さて、正しいとはどの様な状態なのでしょう?
色々基準があると思いますが、大体こんな感じでしょうか。

1.検証・確認が可能である
2.何かの基準と比較して逸脱が無い

まず1.について。
これは理論の正しさ(主に自然科学)の正しさの根拠ですね。
○○は××であると推測される。これは実際に検証できるので正しい。
そう言う正しさです。但し、この正しさは近似的な正しさであるので例外の発見や新しい理論体系の出現により否定されることもあります。

まぁ、ネットの議論でソースソースと言う人たちは、この種の(つまり1.に類する)正しさを求めているのでしょう。まぁ、要するに
○○は一般的に××と見られていると推測される。これは△△にて同様の言説があったので間違いない。
と、そんな風に示したい或いは示して見せろと、そう言うことなのでしょう。

続いて2.について。
これは色々な例がありますね。例えば「日本語が正しくない」とか。
これはどう言う意味かと言いますと、日本語の正しい文法から見て逸脱しているということですね。

まぁ、この例で言えば正しい日本語文法の正しさは誰が保証するんだ?宗教とかなら神が正しいとは誰が保証するのだろうか?といった問題を生み出してしまう訳ですが。
これについては議論価値のある問題だと思っていますので、後で叩き台用の記事を書こうかと思っています。

基準が明確(定義づけが詳細にされている)物ならそうでもないんですけど、
但しそう言うものは実は○○を××と定義するとしてるだけだったりする(例えば「定義」は「ていぎ」と読む等)ので実はお約束なだけで正しいとか正しくないとか関係ないんじゃないか、と思ったりします。




さて、議論と言うのはそもそも私はこう言う意見を持っているとか私はこの意見に同意するとかこの意見は正しいとは思えないとかいった事を表明したうえで

ではどの意見が最も妥当か?

と言うことを考える場であると理想論的には思っています。

まぁ、寡聞にしてそんな議論がネットにて行われている例を知りませんが。出来ればそんな環境の一つにこのBlogがなってくれれば喜ばしい限りです。