文章について | 算術師の、何だかそんなもの。

文章について

算術師です。

ちょっと今日は色々歩き回ってへとへとです。
まぁ、ちょっと精神的にもへとへとですが。




さて、今日はSNMRさんのBlog26日付の記事の記事よりちょっと文章について考えてみたいかと。

内容纏めてて「こうさぎが書きました」の文言を見つけてしまい、ショックなのですが気にしてはいけません。こうさぎ侮り難し。

さて、今更書いたものを消すのも趣味に合わないのでほぼそのまま掲載します。(変更箇所:最後から2番目のパラグラフの冒頭を「SNMRさん」と書いていたところを「SNMRさんところのこうさぎ」に変更しました)




まずBlogの文章特性について。

まぁ、Blogは時系列に依拠したLogなので時系列を排除すると情報価値が低下するのは止むを得ないでしょう。

Blogを書籍化するのは時系列への依存率と言う観点から見れば10年位前の新聞記事を集めてそのままハードカバーで出版するようなものかと。これでは懐古と言う意味ではアリかもしれませんが、それ以上の意味合いを感じません。

どっちにせよ、時系列に依存している部分が多いので、時系列から切り離された形態(単行本)では情報価値とか面白みとかが希薄化してしまうのだろう、とは思います。




次に文章の難しさについて。

さて、私は昔文芸部に関与してました(部員でした、でなく関与してました、と言うのは後ほど解説します)。まぁ、書いてたのは専らライトノベルでしたが。

何故か良く「お前純文学とか書いてそうなのに」とか言われますが、私は純文学大嫌いです。

私の少ない読書経験からの判断なので、独断なのかもしれませんが純文学、殊に所謂戦後の純文学は高尚ぶってるくせに内容が希薄で退屈で、作者は凡俗を超越した存在であるとでも思い込んでいるような文章が多い気がするのです。

具体的には山田 詠美と大江 健三郎とかが私の嫌いな文体の例だと思っていただければほぼ間違いありません。

で、自意識満載なだけの文章が何でこんなに持て囃されているのだと高校時代(それこそ自意識過剰な高校生そのものですが)思ってしまった訳です。

で、その頃確か川上 稔都市シリーズに遭遇して何故か文芸部立ち上げに関与していた私はよし、ライトノベルだと妙に意気込んで書きました。まぁ、関与してただけで正式部員ではなかったですが。

まぁ、短編何個かと長編書いたのですが受験始まってしまって長編は書きかけで書くの止め。短編はPCのデータ移行中にPCが壊れてデータの藻屑になりました。

で、結局大学入ってから書こうと思っていたのですがいざ再開すると中途半端に出来の良い人工知能のようにフレーム問題を起こして書くのやめてしまいました。

要は、1シーン書くのに

・世界観に無理は無いか
・登場人物に無理は無いか
・登場人物は世界観から逸脱していないか
・登場人物の個性付けは適切か(言葉遣い、挙措)
・登場人物の関連に無理は無いか
・文体の人称はシーンの表現上適切か
・文体は統一できているか
・文体に意図しない乱れは無いか
・文体の書き分けは成功しているか
・文法上の誤りは無いか
・文意が一意に読み取れるか
・意図的で無い誤読を排除できているか
・表現のイメージが表現対象と乖離していないか
・そのシーンは全体から見て必要か
・シーン内での伝達すべき内容は伝達できているか
・伏線の活用は自然か
・その他、不自然さは無いか

…と、こんな感じで自問自答(上記は実例)。
まぁ、「わかる」と「解る」と「判る」と「分る」と「分かる」の違いを本気で使い分けようとか、そんな事もしてました。
で、結局殆ど何も書き出せず、気付けば原稿は放置となった訳です。

なのでSNMRさんところのこうさぎさんの言では無いですが、一貫した形で完結した文章を書き上げられる人たちのセンス(必要な表現の見切りとか配置とか)は凄い物だと感心してしまいます。

さて、書きかけで放置している小説、完結させてやりたいんですが…果たして私に出来ることやら。




2005 03 28 2:27 の加筆修正
本人様の指摘より、第22パラグラフ冒頭の「なので彼の~」を「なのでSNMRさんところの~」に修正。
同じく第5パラグラフ括弧内の「彼の」を「SNMRさんところの」へと修正。