議論への個人的な感覚について。 | 算術師の、何だかそんなもの。

議論への個人的な感覚について。

算術師です。

PCに向かってる時間が長かった所為か、どうも腰が痛くてなりません。

レポート作成とか諸々で今後もPCに向かい続けないといけないことを考えると一回整体とかに行くべきかもしれないなと思います。


最近抽象的な、それも私にとってはかなり敷居の高い議論ばかり取り扱っていて食傷気味です。閑話休題的に凄く具体的な、そして個人的な話をしたいと思っています。




さて、唐突ですが私はかなり議論好きです。


…いや、それほど唐突でもなんでもないかもしれません。

何しろこんな初稿 でBlogを始めてしまう位ですから。


まぁ、実は政治系議論をやる気満々だった訳ですが、その後哲学系の議論について個人的に盛り上がってしまって今に至ってます。正直連休中の記事 で、政治系議論がそもそも危険を孕んでいる(議論の破綻に陥りやすい・論者の自我が肥大しやすい)と述べましたが、活発に行われている議論を見るに羨ましくなってしまっている自分が居ます。


やはり隣の芝生は青いだけなのでしょうか…。自我を肥大させたい欲求に駆られていのかもしれません。


ま、政治系の話は別にエントリを起こすことにするとして話を本線(議論好き)に戻します。


昔私はかなり攻撃的な人間でした。まぁ、それ自体は色々必要性があっての攻撃性だったと思っては居ますけど。例を挙げると、自称革命の戦士な社会科教師と2時間1対1で議論したり、校則に不服申し立てして担任と延々3時間討論したり、生徒総会潰したり 、サークルの勧誘を装った宗教団体にわざわざついて行って夜の9時まで延々議論していたこともあります。


某宗教団体に関しては、「人生は動詞か形容詞か?」(つまり、人生は目的を達成するための手段であるか? 「生きてる」という状態なのか? という2択)という非常に素敵な論題を頂いたのでその点感謝しております。これに関しては、いずれエントリ起こしたいですね。


それなりに攻撃性が薄まった(と本人は勝手に思っている)今でも、議論のための議論が大好きで、論破するのが好きなのは今も変わりません。議論相手の思考を誘導することに少なくない喜悦を感じますし、論破した対象に優越感を感じるのは望ましくない性向なのかもしれません。


しかし、同時に議論を戦いの道具としてでなく、コミュニケーションの手段として求めている自分が居ます。 普段他の人とする会話は、多分に儀礼的で会話すること以外の目的を伴うものです。会話以外の目的を伴わない会話も勿論ありますが、所詮は雑談です。相手と話題とに真摯に向き合ってする類の会話ではありません。 無論雑談を否定するわけではありませんが、いささか食傷気味なのも事実です。もっと話題と話し相手に対して真摯な会話がしたいのです。これが議論にあるのではないかと、そう思っています。