執着について。 | 算術師の、何だかそんなもの。

執着について。

算術師です。


連休ももうお終いです。翌日から5限授業とか正直止めてほしいものです。


記事を微妙に分類整理してみてますが、整理の良い案ありましたら意見頂けるとうれしいです。


昨日偉そうに品質保証とか言った割に、結局記事をあーでもないこーでもないと弄った結果は大した物ではありませんでした。何というか、文才が欲しいと頭の中の思考を明快に表現できる表現力が欲しいところです。






さて、やたら小難しい内容になってしまった3日の記事 ですが、今回はその補足です。


3日の記事 では、大体こんな感じなことを言っていたと思います。 人間は自分の影響力の及ぶ範囲を拡張しようと言う潜在的な欲求を持っており、自分の期待する影響範囲に実際の影響範囲が満たない状態を不満として認識し、自分が本来備えているはず(少なくとも本人がそう思っている。実際はどうでも良い)の影響力が失われたり奪われたりする状態を怒りとして表現し、自分の影響範囲外に魅力的な影響力⇔手段の系を発見すると欲望を掻き立てられる訳です。


要するに、私たちは多くを世界に期待したり、自分の行動結果に期待したりしますし、そうやって期待することで自己を肥大させてしまいがちです。だから、よく省察して自己をいたずらに肥大させることを避けましょうね ということですね


 とは言え、一切の要求を捨て去ってしまったりするのはやはり望ましくないでしょう。


私たちは色々なことに翻弄されて生きています。それはお金のことであったり、人間関係のことであったり、勉強や仕事のことだったりします。それらはやはり私たちにとって大事なこと(生活に関わる事ですから)でありますし、執着できると言うことはとても大事なことだと思います。


何かに執着する、何かを大事だと思う、何かを欲しいと思うと言った心理は個々人の活力となりますし、そう言う存在なしの人生はとても無味乾燥なものであると言えるでしょう。更に言えば、徹底して無関心を貫きたければ私たちはこの世界から去らなくてはならないのではないかとも思います。


ただ、ある事に執着しすぎて周りが見えなくなってしまったり、自己を肥大させて高圧的に振舞ったりして色々なものを失う危険性は避けて欲しいですし、自分でも回避したいなと思っています。


ですから、時間が空いててふと気がついた時にでも(本当は何かで余裕がないときこそそうして欲しいのですが)「実は自分が拘ってる事って突き詰めればどうでも良い事なんだよなぁ…。」と思えれば良いなと、そう思います。


何かに執着することが問題なのではなく、執着の結果その「何か」に囚われて視野が狭まることが問題なのでしょう。





蛇足:


3日の記事 の内容を人物Aに対する数式として表現するならば、以下のとおりになると思います。


X:人物Aが実際に世界に与える影響

A(Act):A自身の行動の結果・影響を表現する関数

→Ex. A(呼吸する)=酸素の減少・二酸化炭素の生成 等

E(z):人物Aが行動zにより得られると期待する影響力と、周囲からの反応

B(Act):A以外の影響力を行使できる主体の影響評価関数

→他人の行動結果から自然災害までを含む。


但し、全て客観判定でなく主観である。人物Aの主観である。


X = A(Act) :行動結果=影響。基本式です。


E(A(Act)) ≒ X のとき、Aは安定か満足な状態。

E(A(Act)) > X のとき、Aは不満な状態。

E(A(Act)) < X のとき、Aは困惑した状態か安定な状態。


このうち、不満な状態のとき以下の条件判定が成り立つ。


E(A(Act)) > A(Act) - B(Act) かつ、A(Act)) << B(ACT)

とAが推測するときAは理不尽だと感じるか諦める。


E(A(Act)) > A(Act) - B(Act) かつ、E(A(Act)) ≒ X とAが推測し、かつ

A(Act)) << B(ACT)でないときAが推測するときAはBに対して怒りを感じる。


E(A(Act)) > A(Act) かつ、E(A(Act)+A(Act')) ≒ X

とAが推測し、Act'が未実行の場合(実現不可能な場合も含む)

AはAct'への欲求を駆り立てられる。


大分すっきりと記述できました。何だかプログラムの条件判定文みたいになってしまいましたが…。