パッケージ化される社会 | 算術師の、何だかそんなもの。

パッケージ化される社会

算術師です。

鬱々と、しかし色々と作業しながら今日も生きてます。






さて、久方ぶりの更新で文章の書き方を覚えているのかも怪しそうですが気にしてはなりません。


今回は、『パッケージ化される世界』と題してちょっと社会批評でも。本当はfer-matさんのBlogこの記事 からちょっと思ったことを整理していったらかなり元記事から乖離してしまった風なのですが…気にせず書いていこうと思います。

 





さて、現代はそれまでの時代に比べ、とても便利な時代です。


便利とはどういうことかと言えば、要するに要求に対して投入すべきコストが低いと言うことに他なりません。…と、一言で言い切ってしまっては見も蓋もありませんので具体例を示したいかと。


例ば、水がどうしようもなく飲みたくなったとします。となると私たちが取るべきは蛇口を探して、それを捻る事です。それで概ね事足ります。まぁ、コップに水を一旦入れるか蛇口から直に飲んでしまうかは意見が分かれそうですが。


言うまでも無いですが、かなり便利です。水を求めて清流を探す必要も、井戸から水をくみ上げる必要も、その他の種類の多大な努力を支払う必要もありません。


蛇口と、それを維持している給水システムに「ちょっとお水頂戴ね」とやるだけで良いのです。 給水システムがどうなってるかなぞ、考える必要もないのです。もし給水システムについて考える必要性があると場合があるとするなら、それは給水システムが何らかの問題を抱えているときに他なりません。寧ろ、浄水場や給水機構について深い理解がなければシステムを使うこと適わないなんてシステムは問題があると言えるでしょう。


要するに、私たちの社会は何だか仕組みも原理もさっぱり解らないけど、要求を与えればそれなりに要求どおりの結果を与えてくれるシステムが一杯です。冷蔵庫・洗濯機・パソコン・電車・自動車・商店・工場・市町村・国家…どれを取っても詳細な構造やら原理やらなんか知らなくても動いてますし、私たちは直接間接のあらゆる手段でこれらに要求を与え、応答として結果を得ます。家電製品なら電力と操作する労力とを、経済活動なら金銭や労働力を要求を与える媒介として用いるわけです。


私たちの社会とは巨大なブラックボックス(機能の実態は積極的にでないにしろ隠蔽されている)の集合体である ということです。実は見慣れていると言うだけで、実態不明な得体の知れないものに私たちの生活は依拠しているのです。要領が良いとは、つまりブラックボックス群の操作にどれだけ熟達しているか、と言うことに他なりません。


何か良く解らないブラックボックスを毎日操作して生きているいる私たちが感じるのは、現代社会を語る上での常套句ともなってる「自己疎外」です。私たちは自分の意思で行動しブラックボックスを通じて世界を操作しているつもりが、逆にそのブラックボックスに入出力を与えるブラックボックスに一つなのではないか? 実はそこに個人の意思なんてありはしないのではないか? という疑念に駆られるわけです。


批判的な意味で良く用いられる「優等生」というのは、自分がブラックボックスに囲まれていることに疑問を感じず、逆にブラックボックス側の要求案件を実行すること(進んでブラックボックスになろうとすること)が妥当だと考える人々のことと言えるでしょう。


さて、このような話題を持ち出すと結構な頻度で出てくる「過去にはそんな問題は存在しなかった。近代化が問題なのだ。この問題を解決するには時代を逆に戻す必要がある」といった趣旨の見解をこの喩えで語るならば、「過去はブラックボックスの占有体積が小さかったので問題が表面化しなかった。ブラックボックスの体積が肥大して使用者を圧迫ているのが問題なのだ。ブラックボックスの占有体積を低減させる必要がある」と言ったところでしょう。


この見解、趣旨は妥当でも非現実的です。ブラックボックスに囲まれた生活が嫌いだからと言って、私たちは森に帰る訳には行かないのです。少なくとも私はブラックボックスに不具合が多いからと言って、排除して森の動物と格闘して生きるなんざ御免です。ブラックボックスに圧迫されていると感じる人たちは、どぞご自由に自身の周りのブラックボックスをリストラしてください。努々世界がそうあるべきだとか、そう言う発想で行動されないよう。


ではこの問題を如何に解決するか? 解決策は複数あります。人口に膾炙されているものとしては、こんな物があるでしょう。


■「得体の知れなさ」を低減する


要は権威の利用です。得体の知れないブラックボックスに操作されているのではなく、信任の置ける機構が指示を出しているのだ と摩り替えることで自己疎外を低減させます。

問題は、権威が信頼されていなければ結局無意味であることにあります。過去に利用されていましたし、これからもそれなりに利用されていくでしょう。何よりシステム運用サイドから見ればかなり便利です。


■ブラックボックスを操作している実感を与える


言ってしまえば巨大なコミュニティーを小規模なコミュニティーに解体していくことを指します。操作している実感が乏しい割に、操作要求が多い気がする ことが問題であるので操作に対するレスポンスを適正化してやれば良い、と言う見解です。

2chに人が群がったりMMOやらMixiやらBlogやらが流行ったりするのは正直この解決策意識しないうちにを志向しての事ではないかなと思います。


■ブラックボックスの調整


ブラックボックスが個人に要求する事項の水準を下げる方式。しかし、これは自己疎外の裏返しの「ブラックボックス(社会システム)=個人に対して圧倒的に強力で不寛容」というある意味過剰な認識が根底にあると思います。まぁ、ブラックボックスの占有体積が小さい頃に作り出された社会システムやら認識やらはそろそろ時代遅れだとおもいますし、一般に解決策として与えられているシステムもかなり時代遅れな気もしますが。ドラスティックな解決策は実用性が疑問です。

曲がりなりにもそれなりに上手く運用されてきたシステムの代替策なんてのは、中々構築するのは難しいもです。実践されるとしたら、ブラックボックス一つ一つを少しずつ改善していく方式になるでしょう。


まぁ、以上一般的な思考を書き連ねて見ましたが…解りづらいかもしれません。何しろ一般的には社会思想として表出している事項ですから。比喩的に論っていると言うと実態を個人的にはコミュニティーの分解と並行してこんな物を提案します。


■事実として受け入れる


諦める とも言います。社会システムが私たちを操作しようとする(フィードバックとして)のは仕方が無いので、世界がどのように私たちを操作しようとしているか(或いは、どのような形で私たちを保護しているか)をそれなりに理解した上で、自己の目的の為にシステムを利用する態度を取る。

踊る阿呆にはなりたくないが、踊らざるを得ないなら楽しく踊ろう とでも言った感じでしょうか。尤も、問題なのはシステムを利用するための手段が非常に限られるわけですが…。


■世界の拡張またはヒトの機能拡張


まぁ、これは夢物語です。

世界が手狭になり、尚且つ私たちの手では操作も叶わない状況ならば、いっそ私たちの手で比較的容易に操作できる世界を構築してしまえば良いのだ、或いは世界を容易に操作できるように私たちを拡張すれば良いのだと…。

本当に夢物語です。 …心惹かれるものはあるんですがね。如何せん実現手段がありません。

RPGとかって、拡張を疑似体験する一手段なのかもなぁ…とか、どうでも良いことも考えてみたり。

類似する言語装置として、「天才」だとか「優秀」だとか言ったものがあります。私は拡張された存在なのだ、と認識することで自己疎外を希釈する装置が。


どれが実効性能が高いか、どれがコストパフォーマンスが良いか検証できれば良いのですが…如何せん主観なのでどうにもならないと思います。投入コストの問題から、世界を変えるより、世界を切り分けたり受け入れたりするほうが有利かな とは思いますけどね。


まぁ、過渡期だからかもしれませんが社会システムに制度疲労が結構来ているのは事実だと思います。

「得体の知れないもの」に操作されている感覚を遮蔽する偽装システムに致命的な問題が発生していると言うべきかもしれません。だからこそ結構な割合のサラリーマンは愚痴ばっかりで、「社会は厳しいんだぞ、理不尽なんだぞ」と夢見がちな若者に説教するのでしょうし、諭されると「お前に何が解る!!」とか言って切れるんだろうなぁ…と、どうでも良い事を思い出しました。