一月ぶりの更新。自信について。 | 算術師の、何だかそんなもの。

一月ぶりの更新。自信について。

算術師です。


皆様お久しぶりです。


何も言わずに更新が止まり早4週間…実質1ヶ月な訳ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか?


私は…平たく言うと思いっきり欝でした。状況と内容は4月冒頭の日記 (注:非常に痛いです)と大差ないようです。進歩が無くていけません。


掃除に洗濯に読書に学校の課題に試験対策に……と、「普通の人が当たり前に出来るやらないといけないこと」が認識上「非常に実践が困難なこと」に摩り替わってしまっていて、尚且つ「普通の人が当たり前に出来るやらないといけないこと」であるという認識に振り回されているといった感じでしょうか。


要するに「やらないといけないこと」に対して処理能力が追いつかず、実はこんなの処理するの絶望的なんじゃないかと思ってしまっていて、更に追い討ち掛けるように「こんなのできて当然だよね?」といった感じの自責を掛けてしまって容赦なく凹んでいた といった感じでしょうか。心療内科への受診を進められて居たりもしますが、少しだけ様子を見ながらやっていきたいかと。


記事が書けなくなってる時点でより悪化してたわけですが、それに関して気にしてはなりません。寧ろ気にしないで下さいお願いします。 ともあれ、状況の打開には「出来て当然のこと」を実際に実行していくことが高確率で有効でしょうので実践していきたいと思います。






さて、そんな状態で一杯一杯だったわけですが、改めて考えてみると劇薬 ぶち撒けながら何で○○でないんだ!! ■■は××でなければならないのに!! なんて考えは自我が無用に拡大した冷静さを失った思考であるとか言っていた割に自分自身に対しては


何でこれくらい普通に出来ないんだ!! 私はこんなに無能であってはならないのに!! 


と自分を大上段からばっさりと断罪していたのを発見して中々複雑な気分に。


何でしょう。自分自身の挙措に対して期待をすることはある意味最低線だと思います。安っぽい文言じゃありませんが、自分を信じられない者が他の何を信じられるでしょう? 個人の身体・意識はある意味その人の固有領土なのです。その固有性を疑う事は、ある意味個人が個人であることを放棄することであると言えるのでは? とさえ思います。


とは言え私たちの体は経年劣化していきますし、不慮の事故や病気によってその機能を失ったり損ねたりします。身体を固有領土に喩えるならば、さながら洪水や地震や火災といった天災に相当するでしょう。ハードウェア的な損失であるともいえます。


では、意識の機能を損ねる場合(事故により物理的に意識機能が損傷される場合を除く)は何に相当するか? これは正に人災ないしは制度疲労の産物と言えましょう。要するにソフトウェアの問題です。 では何が制度疲労を生み出すか? 簡単に言ってしまえば意識の外部との格差です。此処で言う外部とは、意識を基準にした外の世界…要するに意識が情報を受け取り、分析して吐き出す対象のことであり、具体的に言えば私たちを取り巻く世界であったり知覚が構築する世界であったりします。


この格差が生み出す制度疲労ついての議論は、5月3日の記事3月10日の記事 に関連した記述が残っているので今回はそちらを参照していただくとして、本論へ。 以上のハードウェア的・ソフトウェア的な特性により自分自身という道具は良くも悪くも多くの場合で自己が期待する通りの性能を発揮してくれません。また、因果関係を掴むにはかなり複雑な存在です。


この面倒なツールの運用態度として無難なものはどのようなものか? …言い換えればどれだけ自分の能力に自信を持ってよいか? と言う話になりますがこれは難しい問題です。自信無しには何も出来ず、自信過剰は挫折時の問題と対人的に高圧的になりやすい問題があるので無難を言えばバランスを取ってといった所でしょうか。


個人的には自信が無くて挫折しても自信があって挫折しても結局被害は大して変わらないので、自信を持つことが悪いとも言い切れないところがあります。問題は対人面で高圧的になりやすい点と、視野狭窄を起こしやすい点にあると言えるでしょう。


とは言え、この問題はその人物が自分が高圧的だったり視野狭窄を起こしていたりすることについて自覚できないことに本質があるわけで、運用方針自体が問題であるのという訳ではなさそうです。要するに、4月17日の記事(注:劇薬入り) にて粗方語っているのですが、傲慢である自分に対して無自覚な自分について時々でよいから省察することが望ましいと言えそうです。


まぁ、傲慢だったり高圧的だったりする人間は概ね自分が高慢であることで不利益を被っているとは思っていないので、そう言った省察を自らに課すことは難しいでしょう。周囲に指摘されても難しいかもしれません。実際問題、それが害だと思いさえしなければなんら問題は無い訳ですから省察の必要なんて皆無でしょう。無論、それから致命的なしっぺ返しを頂く可能性もありますが…。


となればどのような態度が望ましいか? 個人的には自信過剰にならない(弊害が発生しない)程度なら自信を持つのは悪いことでないし、寧ろ賞賛されてしかるべきと思います。まぁ、何故こんなことを言い張るかと言えば、欝の所為なのか自信が持てない状況が続いている(寧ろ悪化傾向なのかもしれません)ので自信回復したいが為に自己肯定できそうな材料を探しているのも一つの理由なのでしょう。


そう考えると中々この病も根が深いものです。