人生は動詞か形容詞か? | 算術師の、何だかそんなもの。

人生は動詞か形容詞か?

算術師です。 レポート期間が迫ってきて大慌てです。 取り敢えず、出すものさくっと出して気楽にやっていけるようにしてやりたいなと思います。





さて、今回は人生の意味とやらについて考えてみたいかと。


人生の意味に対する議論なんてありふれていて尚且つ多岐にわたっているので、方向性を示すために個人的な昔話(体験談と言うほうが正確そうですが)を引いてみたいと思います。


 ■昔話開始■

 私がまだ大学に入ったばかりの頃、とある宗教系のサークルに勧誘を食らいました。

・勧誘用マニュアルがある

・勧誘段階でいきなり「人生の目的って何?」とか言うテーマをぶち上げる。

・サークル名を言わない

・新入生に対して常に1対多数で接触する


とまぁ、怪しげな要素満載だったので流石に「あー。宗教系だな。確実に。」と思いました。

で、何を考えたのか(10中9~9.5くらいは議論好きの性のなせる業でしょう)この連中を論破してやろうと思い、のこのこついていくことにしました。


彼らの言い分は、ちょっと長めに要約してしまえばこんな感じでした。


「人生には目的がある(それについては後日洗脳合宿で説明していく気だったらしい)。

目的を喪失しているから人生がつまらなくなるのだ。

生きることには常に死を背にしていることである。

それを悟った上で生きる時間を人生の目的を実現の為に投入するのが所為の本来の人生の意義だ。」


…なるほどな、とは思いました。彼らが「仏教って素晴しい」とか繰り返し発言してなくて、尚且つ過剰な演出と威圧的な意見の強要とにじみ出るカルト臭さが無ければ素直に頷けそうな内容ではありました。


私は、このような見解の元反論しました。


「人生には目的なんて無い。

人生は単純に人生であって、目的が存在するから生きている訳ではない。

私たちは単に「生きている」だけだ」


まぁ、昔のことなのでちと練り込みの足りない思考です。結局彼らとは合計6時間くらい討論したのですが、相互理解には至りませんでした。


後で思い至ったのですが、彼らと私の思考が完全に食い違ったのは要するに人生を「動詞」と捉えるか「形容詞」と捉えるかの差だったのだろうと、そう思いました。


■昔話終了■


さて、自分って無謀な行動大好きだったんだなぁ とかどうでも良いことはさて置き、話を続けましょう。


人生とは本来的に「動詞」か「形容詞」か? 要するに本来の目的が存在して、その目的の実行の為に人は生まれてきているのか? それとも単純にそう言う状態が付与されているだけなのか? 見解は人に拠るでしょうし、また見解が分かれたとて追従の仕様も無いのですが個人的には私たちは何の必然もなく生まれてきたのだろうと、そう思っていますし、動詞形容詞の話で言うならば人生は形容詞だと思っています。


いえ、正確に言えばそうでなくては不都合であると思っていると言うべきでしょうか。


人生に目的がある…もっと正確に言えば人生に生得的な目的が存在する、とすればそれを設定した何者かが居る事になります。(目的は評価対象が存在しなくては目的たり得ませんから)つまり、そこには宗教で言うところの神…それも造物主に値する存在が存在し、本来の目的達成の為に私たちを動かしている と、そう言う構図が生まれてきます。 これはかなり不都合です。


世界を認識し、意味を規定する存在である自我が、自我自身に意味を規定できない(つまり既に他者により規定されていて、尚且つ変更権限が無い)なんて、どれだけ好意的で高尚な存在意味を定義されていても非常に絶望的だと思います。操作も受け付けず、交渉の余地も無いのですから。


要するに、自分の存在事由くらい自分で規定したいと、そう言うことなのでしょう。




ちょっと纏まりがつかないのですが、私自身が纏めきれない状況なので明日以降に続きます。

大変申し訳ありません。