算術師の、何だかそんなもの。 -3ページ目

Political Compass

算術師です。

授業が2限始まりなのでまだ時間に余裕があると、勢いだけで更新頑張ってます。

 


 
さて、何となく週末にやってみたPolitical Compass日本版Political Compass の結果を貼っておきます。
政治関連は収拾つかなくなるから嫌いなのですが、この手の診断は好きな物で。暇がありましたら皆様お試しあれ。

まず、Political Compass から。

Your political compass
Economic Left/Right: -0.88
Social Libertarian/Authoritarian: -1.44

次に、日本版Political Compass の結果を。

政治的な右・左度(保守・リベラル度) -0.42
経済的な右・左度(市場信頼派・政府介入派) 0.68
あなたの分類はリベラル右派です。
保守は伝統や公共の福祉を重視し、リベラルは個人の自由を重視する価値観です。
右派は小さな政府、左派は大きな政府を志向する価値観です。
いわゆる右翼は保守に、左翼はリベラルに対応しますので、ご注意ください。

まぁ、Political Compass で日本人を測定すると左派へと偏移する傾向があるらしいので、結果から言ってしまえばリベラル右派とかいう微妙な存在のようです。

まぁ、どうでも良い自己診断でした。

隣人諸氏に一言。

算術師です。

輪講の英語資料の訳がさっぱりな状態です。
金曜までに発表資料作らないと拙い事を考えると、そろそろ慌てるべきだと判断します。



さて、先日見事復帰を果されたSNMRさんですが、何だか知らない間にまたコメント欄が凄い事になっている模様。

見ていて宗教に於ける原理主義と世俗主義の対立を見た気がします。

要するに、
「余りに配慮が無さ過ぎる。Blog主として相応しい行動を取るべきだ」
と言う原理主義な人と
「SNMRさんがやりたい様にさせとけばいいじゃない」
と言う世俗主義な人の対立。

どちらにしても「かくあるべし」な幻想(前者はSNMRさんに対して、後者はSNMRさんを批判する人物に対して)を押し付けあってる気がします。

まぁ、この記事を書き始めた時点ではもう収束傾向にあるようなので、悪戯にコメント欄に介入するのも不毛なのでこのエントリを最後に関わらないことにしておこうと思いました。トラックバックは打つべきなのか悩ましいのですが、当事者の知らないところで勝手に評論するのも問題だろうと判断してトラックバックすることにします。

取り敢えず、私の見解は関連エントリ「非難について」及び「非難について  補足」と「冷静になる為に考えること(劇薬入り)」で粗方言い尽くしていると思いますので、改めてこれ以上語るのは避けたいかと。もう終息している様ですが、皆様冷静になってくださいなと。

因みに劇薬入りはかなり容赦無いので、読む方はその点ご了承願います。

さて、私は信者に分類されるのだろうか。だとしたらどちらに分類されるのだろうか…。



何だかんだ言って、これだけの騒動を巻き起こせる(そして、あれだけの擁護コメントがつく)SNMRさんのカリスマ性は凄い物があるのだろう、とそう思います。まぁ、時にかなり迂闊ですが。正味SNMRさんのBlogにトラックバック打った日(またはその翌日)はアクセス者数が跳ね上がるという悲しい現実があったりして中々考えさせてくれます(酷い時は通常比500%とか)。

正直、現状アクセス者数を増やすのに他力本願な手法に依存している気がしてきた(何だか利用しているのではないか? とも思った)ので、暫くトラックバックは打たずに独自路線を模索して行きたいと思います。

怒りについて

算術師です。

余りに眠くて9時になる前に寝てしまったら起きたのが4時前でした。
もう少し規則的な生活を送りたいと思う今日この頃です。

久しぶりに紅茶入れたら何だか微妙な出来栄えでした。

色々な意味でリハビリが必要なようです。



さて、17日のエントリ「冷静になる為に考えること(劇薬入り) 」にdemianさんNakada Hiroshiさん のお二方からコメント(トラックバック代わり含む) を頂きました。

Nakada Hiroshiさん が関連エントリを書いていらっしゃいますので、紹介させていただきます(当該記事 )。



お二方のコメントで共通して指摘頂いた事は、怒りの制御は難しいと言うことです。

正直過去に私も色々やらかしているので痛感するところです。

怒っている最中は冷静であるべきと言った心情はかなりの勢いで放棄されていますから、我を忘れているのは当然と言えると思います。怒ってる最中に、「あ。私怒ってるな。」と認識できるのは中々レアケースだと言えると思います。寧ろ、我を忘れない怒りと言うのはある意味ポーズなのかもしれません。

こういった状況での自制をするには経験値を増やして行くしかないのでしょう。

Nakada Hiroshiさん記事 でも述べられていますが、Blogでの記事発信に冷静さを確保する意味では時間を置いて改めて記事を読み直すのは非常に有効な手法だと思います。

また、 怒りに我を忘れてしまったときには、自分は何に対して我を忘れてしまったのか? を分析するのも有効では無いかと思います。



自戒の意味も籠めて、過去に怒りに殉じてやらかした事例を一つ挙げながら試しに分析してみたいかと。

高校生の生徒総会でのことです。
当時長々と予算報告読み上げるだけの生徒総会に不快感を感じていた私は、質疑応答のときに
「裁量権の無い生徒総会に何の意味がある?」
「資料読み上げるだけなら、こんな式やらずに放送で済ませろ」
等等発言して生徒総会ぶち壊しました。
応答に当たった生徒会副会長さんはヒステリー入って泣いてしまいました。
「私たちに裁量権なんてありません。」と言った旨の発言を繰り返していました。
(確か副会長さんは女性だったと記憶しています。重ね重ね悪いことをした物だなと、そう思います。)

まぁ、その後結果はお寒い限りで…翌年の生徒総会では質疑応答が事前報告制になり、その翌年には質疑応答自体廃止されてしまいました。

まぁ、発言内容自体は今でも正当性はそれなりにあったと思っているのですが、そう言う類の発言をすべきだったのか、また自己満足に走ってしまったのではないか、人を排撃してまですべき発言だったのか、等々自戒すべき点は多かったと思います。

さて、この時私が何に対して我を忘れて怒ったのか。

この時私が槍玉に挙げているのは生徒総会のあり方です。
17日の記事 を引き合いに出して言えば、私は生徒総会のあり方に期待をし、それが裏切られたと感じた訳です。

では、私は生徒総会にどのような期待をしていたのか。
記憶の範囲で自己分析するところ、要するに生徒総会には運営に裁量権があり生徒の意見を代弁するべきだ、とでも期待してたのでしょう。更に言えば、その裁量権で私の意見を取り扱って欲しい、実行に移して欲しいと期待したのでしょう。(まぁ、中途半端な進学校だった私の母校にそれは期待できる筈も無かったのですが。)

で、生徒会からの回答が「裁量権はありません」だったので当然期待の前提条件は見事に崩されて、「発言の場まで用意しといて、さも裁量権ありそうに『生徒総会』とか銘打っといて…裁量権が無いだと? ふざけるな!!」とぶちきれたのでしょう。(この場合、怒りの矛先は生徒会よりも権限を制限している学校サイドに向かうべきだったのでしょう。まぁ、そこまでやる価値があったとは思いませんが。) …。

要は学校だとか生徒会だとかに過大な期待をしていたのが原因なのでしょう。

何だか分析してみると、まぁ思うところはわからないでも無いけど怒りの向ける矛先間違えてるわ限度を間違えるわで痛いなぁ…と思います。要は、それって其処まで爆発するようなことか? と。

兎も角、こんな感じで分析してみれば自分の怒りが結構他愛も無い問題だったり、大暴れするには至らない(冷静に対処すれば良かった)問題であると認識できるかもしれません。

実用になると思いましたらお試し頂ければ幸いです。 

 

 

 



追記:

 

とは言え、怒りに我を忘れるほどの問題と言うのは本人にとって切実で重要な問題な訳ですから、何に対しても常に冷静で居るのも問題なのではないかと思います。寧ろ、それは冷静なのではなく全てに対して醒めているだけなのでしょう(今の私がそんな感じなのかもしれません)。

殉じる事が出来るだけの怒りを持つ事は、努めて冷静さを保つことと同じくらい大事なことだと思います。勿論、吟味した上で尚怒るだけの理由があると判断すような怒りを持てるなら、ですが。

冷静になる為に考えること(劇薬入り)

算術師です。

朝一に軽く外を走ってきました。
思ったより軽く動いてくれる体に感動しつつ30分走って歩いてを繰り返してきました。 何だか久しぶりにかなり良い状態です。この調子で上向いて行ってくれると有難いなぁと、そう思います。

 


 


さて。
15日の記事「非難について 補足 」にdemianさん からコメントを頂きました。

demianさん のコメントについては当該記事のコメント欄 を見て頂くとして、興味深い問題提起を頂きました。 今回はそれについて考察して行きたいと思います。

 


 


非難について 補足 」では結局のところもっと冷静になろうよ、みんなと言う趣旨だったわけですが、ではどうやって冷静さを保つのか?或いはもっと踏み込んでどうやって冷静な状態になるかについては放置したままでした(冷静になれば解決すると言うよりは、寧ろ冷静になれないから問題は悪化するのだと言うべきなのかも知れません)。

ではどうやって冷静になるか。そして冷静なままで居るか。私なりに書いていこうと思います。

 


 


 冷静になれない状態(激昂すると言う意味で)とは、往々にして自分の期待を裏切られた時、自分の欲求が満たされなかった時です。

何で○○でないんだ!! ■■は××でなければならないのに!! と定型化できる心情ですね。

自我が拡大している状態であるとも言えます。
こんな状態で冷静であるには、自分が内心何を期待しているのかをしっかり見極めて自問自答を続けることが重要だろうと思います。必要なら、期待を諦めることも大切でしょう。

要は我に返れ と。

言ってしまえばそれだけです。

とは言え、それだけで終わってしまってはアレなので自分が冷静さを失いそうなときに自分に吹っかける劇薬入りの冷水でも置いておこうと思います。冷静な時に読んで、自戒の一助にしていただければ幸いです。冷静でない時に読むとやはり劇薬なので有害だと思われます。

 


 


自分語りなBlogを書いている皆さん。自分の主張を書き込みしている皆さん。そして私自身に敢えて言います。

貴方は10中9くらいの確率で
普通の人より自己顕示欲が強めの人間か、自己満足の塊な人間です

何故Blogをつけるのか。何故Blogに書き込みをするのか。これは要するに誰かに認知されたい、反応されたいという欲求を抱えていることに他なりません。

わざわざ人目に残る形で公開される場所に、自ら労力を支払ってまで書き込んでいるのです。対価は何か。自己顕示欲が満たされた満足感だったり、他者から称揚だったり、議論が行えたことに対する満足感だったりします。

まず、その時点でもう少なからず冷静で無いことを自覚してください。何がしかの形で満足感を得たいと言う欲求が内心あるので、既に書き込みの時点で批判や無視に対して敏感になっているのです。 批判されれば充足感が損われ、不快感が増します。

となれば攻撃的になってしまうのは必定でしょう。

では、この状態で満足感を得つつ冷静で居るにはどうすれば良いのか。個人個人が、副次的にとは言えそう言う欲求を満たす為に書き込みしていることを把握する事が第一では無いかと思います。

要するに、同形反復ですが自分の内なる思惑をきちんと認識しておくことが大事なのだと、そう言うことです。 私は自己満足で書いている、と認識できているなら…かなりの精度で自分を相対化してみることが出来る筈です。

さて、書き込む段階で冷静さを失っている場合はこれで良いのですが、罵倒とか非難とか批評と言ったレスポンスに対して冷静でなくなってしまう場合も往々にして有ります。

この場合、原因はこんな感じでは無いでしょうか?

・批判されるのが不快
・批判の語り口が不快
・批判ではなく非難
・罵倒になっている

更に、敢えて言い続けます。無論偉そうなのには理由がありますので、それについては後述します。

まず、批判されるのが不快で取り乱してしまう人へ。意見を何か言う時、万雷の拍手にて受け入れられて然るべきとか思っていてはないでしょうか? そうなら貴方は、オープンな形での議論に向いていません。貴方にとって不快な雑音を排除して、気の合う人たちだけで議論を推し進めるべきだと思います。無論批判に対して無批判に受け入れろとは言いませんが、批判が発生すること自体は受け入れるべきです。一旦落ち着いて批判内容を吟味してください。

次に語り口が不快で取り乱してしまう人へ。意見を言う時、貴方は常に相手から敬意を受けて当然だとか思っていませんか? そんな貴方は、議論なんてせずに猿山で講釈でも垂れててください。言ってしまえば貴方にとって必要なのは論客ではなく、取り巻きです。相手に礼儀を求める以前に、自分は相手に払うべき敬意を払っているでしょうか? 単純に言い回しの趣味の差であって、比例を働こうと言う意図は無いかもしれません。その事を吟味してください。吟味した上で、相手への態度を決定してください。

相手が罵倒目的なら、それも仕方ありません。誰の目からみても罵倒であるなら、応援を呼ぶか何なりして外部の支援を受けてください。誰の目から見ても罵倒なら ですが。そうでなければ貴方は被害妄想入っている可能性が高いです。貴方はそれ程特別な存在でも何でもありません。貴方に向けられる悪意の原因は、大体の場合あなた自身にあります。

この3者に共通して問いかけたいのは次の質問です。

議論自体、或いは議論の相手の行動に自分勝手な期待をして、その上で「裏切られた」だとか「失礼だ」だとか「下らない」とか言い募ろうとしてはいませんか? そんな自分勝手な不満をこぼしていい気なってる貴方は何様ですか?

以上です。

萎縮せよとは言いませんが、大体の場合、貴方は自分が思っているより聡明でも偉大でも一目置かれて悪意の対象になってもいません。まずそれを認識するべきです。
もう少し議論に対して、論敵に対して、真摯であるべきだと思います。
 

 


 


さて、上記の文章、読んで不快に思われる方も多いと思います。

ですが、敢えてこのような文章にしたのは自分の中にそう言う自分が見ても人が見ても不快な傾向が無いか? と自問自答して欲しかったからです。もっと言えば、極端な例を反面教師として挙げているつもりです。

自己を一旦こう言う形で突き放してみて、相対化してみれば実は下らないことで取り乱していたと認識できるかもしれません。

兎も角、冷静になるには自分が冷静である、正当であるという考えを一旦放棄して自分は周囲に過大な期待をしているので無いかと自問自答するべきではないのかと、そう思います。

さて、と。

算術師です。

ダヴィンチ・コード読み終わりました。所要時間は上下合わせて大体3時間半位でしょうか。
先が気になってしまって、謎解きを殆ど考えずに読み終えてしまったのは問題だと思いました。

まぁ、知識ないと駄目な謎掛けが多過ぎて謎解き読んで「判るかそんなもん」と一人こぼしたのは内緒です。読み終わった感想を一言で言えば、正直伏線にしてやられた、と言う感じでした。

細かい話は読み終わって無い方も居るでしょうから省きますが、キリスト教の成立史も中々興味深いものだなと思いました。


神話とかについても読み直しとかしたいなぁ…。嗚呼、読みたい本が増えていく…。


ま、何にせよ今日は疲れ気味なので軽く寝る前に体動かして寝ようと思います。
それでは皆様、お休みなさいませ。

雑記。今楽しみにしている物について。

算術師です。

新学期第一週も終わりました。

取り敢えず、配属されたゼミの輪講がかなりシビアな事が判明してげんなりしています。まずは英訳からの模様です。追加で新入生に飯を奢る羽目にもなり財布が寂しい今日この頃です。

取り敢えず、今期は油断しないをモットーに行きたいかと。



今回はちょっと普通の雑記です。最近楽しみにしているものについてです。かなりだらだらしてます。

真面目な記事は日付変更までには多分書きます。

まず、一つ目。 SNMRさん復活した 模様。

諸々の騒動があった後なのでどうなるかと思いきや、普通に復活してますね。

今後に期待です。



さて、二つ目行きます。

塊魂 と言うゲームをご存知でしょうか?

知らない人の為にちょっと解説すると、大体こんな感じのゲームです。

まず、主人公は王子だそうですが、正直どうでも良いです。
プレイヤーは王子を操作してに色々な物を巻き込んで大きな塊を作っていきます。

画鋲やら消しゴムやらに始まり、テレビを机を犬を猫を魚を人を人を人を車を家を植木を島を巻き込んでいきます。人が巻き込めたり家が粛々と塊にくっついていくのは中々笑いを誘います。

BGMも素敵です。結構有名どころが全力で歌ってるのに、ゲームの内容と重なって色々台無しです。惜しげもなく台無しにしてる具合が堪りません。基本的にはシュールさ満載ですけど。サウンドトラック も出てるので、試しに買ってみて下さいな、と。

さて、そんな感じで素晴しく素敵な塊魂続編 が出る模様。

ステージ追加とか、巻き込めるオブジェクトが増えたりとか、定番な続編具合なのですが、タイトルがみんなだいすき塊魂 だそうで。 非常に楽しみです。

今回も期待を裏切ってくれないことでしょう。色々な意味で。
発売日未定なのが気になりますけどね。



三つ目。これで最後です。

なけなしのお金を叩いてダヴィンチ・コード 上下巻を衝動買いました。
脳のなかの幽霊 も気になったのですが、本屋になかったので知り合いに借りようかと。

まだ読んで無いですが、これも楽しげです。取り敢えず今日中に読んでしまおうと思います。

批判について 補足

算術師です。

何か凄い勢いで人が来ている模様で、目下焦っていたりします。 …アクセス解析置けない都合上、気になっても見ることが出来ずもどかしい限りです。


 
週明けから学校が始まった訳ですが、思いの他必修単位を落としていないことが判明して安堵しています。後期に再履しないといけない単位が固まっているので、前期中に選択を可能な限り取得しておきたいと思います。

同時並行で体も人並み程度に鍛えていくつもりです。 取り合えず、泣き言やら言い訳やら吐かずに頑張ってみようと、そう思います。

そう言えばこちらの方がそろそろ復活される模様。さて、どんな記事になることやら。

 


 
さて、今日は先日書いた非難についての補足を少ししたいと思います。

demianさんの所で、サイトの方針として匿名での批判禁止ルールというものが紹介されています。 要約すると、こんな感じです。

・批判者は自分が何者か紹介し尽くさなくてはならない。
・自分が何者かを名乗らずに批判をするのは望ましくない。
・自己紹介の為にも、自らHPなりBlogなりを運営するのが望ましい。

正直、これには同意できません。

こっちは労力削ってBlog運営してるんだから、批判するにも相応の労力を注ぐべきだ、と言う考えがあるのかもしれません。 いくらBlogを始めるのは敷居が低いとは言え、Blog続けるのは大変です。

とは言え、相応の労力を払えと言う意見を極端まで推し進めれば、批判者の払うべき労力はかなりのものになりますし、一見さんが批判するには敷居が高くなってしまうと思います。これを実生活で例えるなら政治について批判するには、自ら政治活動していなくてはならないと政治家が言うような物です。

そんな訳で、 批判を行うのに高い敷居を求めるのは良識的な批判を萎縮させる可能性も高いですし、「匿名だから」と言う理由で聞けたはずの批判を逸してしまうこともあるでしょう。それに、電車の中で説教をするのに名乗りを入れるところから始めるのはナンセンスなのに、ネット上では自己紹介を「恥かくほどに」しなくてはならないと言うのはどう言うことでしょう? やはりナンセンスなのだと思います。

正直、これでは予め相当敷居の低い状態の人(要するに、その人と普段から意見のやり取りをしている人)以外の批判・批評は難しいと思います。勿論、見ず知らずの人が批判を行う場合動機の観点から見て攻撃的になる傾向は否定できませんが、耳に良い言葉だけ聞けば良いと言うものでも無いでしょう。

批判・非難について述べているBlogでは、しばしば批判と非難が混同されているのですが、これも問題だと思います。

判自体については非難についてで述べた通り決して責められるものではありません(寧ろ、自己満足的に批判・非難することの方が問題)。

まぁ、相手が悪意剥き出しの場合は正直扱い困りますけど、その場合はしかるべき処置を取れば良しなのであって、最初から匿名批判は一切お断り と言っていては折角ネット上に公開している意味がないと思います。匿名の批判を一切排除したいならクローズドな会員制にすれば良いと思います。

批判側も批判される側も、「けしからん」ではなく「相手を考慮しているか? 相手に正しく自分の意見が伝わるか?」をもっと考えて欲しいのです。

要は月並みですが冷静になりましょうと、そう言うことですね。

非難について

算術師です。

2件のエントリ作成は無謀だったようです…。
遅筆な私が2エントリ作成終わったその時日付が変わっていました。

進化についての続きは遅くとも明後日(明日はサークルオリエンテーションで1日動けない)以降の今週中にでも書き上げたいと思います。

思った以上に範囲の広い学問で正直困惑気味なのですが、可能な限りの考察をしたいと思います。

 


 


さて、ネタの提供元としても結構お世話になったSNMRさんところのBlogのコメント欄が凄いことになってたらしく(その時期風邪で倒れてたので詳細は知りません)、その騒動に関連してdemianさんこんな記事を書いています。

私なりに簡単に要約すると匿名で批判(私個人の見解では非難に近い)する人たちはコンテンツ作成する側から言って破壊的な勢力になりやすいので慎むか規制されるべきではないか、また何故このような批判を行ってしまうのかについて考察されていました。

 


 


色々思うところはあるのですが、今回は何故ネットでの非難が攻撃的になるのかについて考えたいかと。 さて、今回の状況を実社会で考えるとこんな感じだろうな、と思います。

ある男が仕事で単純ミスで失敗をやらかしました。
災難だったな、何やってるんだよ、と同僚は言います。

そんな中、同僚の一人がこう言います。
この同僚は数ヶ月前に同じ失敗をやらかしていました。
「お前、それ原因わかり切ってるだろう? 詰が甘いだけじゃないか」と。
非難した人物の言い分が正しいだけに彼は何も言えません。

非難者は何も言えないのを見て、更に非難します。
「注意力が足りないからそうなるんだ。もっとしっかりしろ」と。
彼は項垂れたままです。

非難者は満足して更に言います。
「大体な……」
彼は「お前が言うな」と言って非難者を殴り倒しました。

男は会社を辞めることになりました。

実社会でも周囲の制止さえなければ無くは無さそうな状況だと思います。

さて、何故非難者は自分の非を棚に挙げて非難してしまうのか。そして非難を止めないのか。

理由は簡単です。
非難は快感だからでしょう。

実際気分が良いものです。自分が正しいことを言ってる、と言うのもありますが明らかに自分に非がある状態で非難されると大体の人は強く出られません。それでなくても反省している人は精神的に萎縮しています。強く出られないと言うことは、非難する側からすれば精神的に優位に立てると言うことです。精神的に優越感に浸ることは、多くの人には快感であるでしょう。自分が同じ非を持っていたことなんて、この優越感の前ではもう霞んでしまいます。精神的に優位に立てると認識すると、相手を虐げてもっと優位に立てるでしょう。

後はもう循環です。その人の満足いくところまで止まりません。

判りきったことに対する説教と言うのは実際問題、やられる人間の反省だとか更正だとかよりやってる本人の自己満足が実際問題大きいのだろうと思います。

中学校だか高校だかの朝会での生徒指導の説教(ナニソレ? って人は校長先生のお話にでも差し替えてください。校長先生のお話が退屈でなかった場合は、あなたは幸せな学生してたと誇って良いです。)がやたら退屈なのは、結局話す側が優越感に浸ってしまって内容の吟味から聞く側を無視した方向に行ってしまっているのだ、と私は思います。

ネットでの匿名非難問題に話を戻しましょう。

ご存知の通り、ネットでは相手の顔も肩書きも思惑も一切遮蔽されています
まぁ、この点に関してはdemianさんの記事でも記述がありますが、要は相手の状態を推測する為に普段用いる要素がかなりの勢いで欠落している訳ですから、配慮が雑になってしまうのだろう、と。

何故匿名で非難するのかは正直色々あると思います。例えば、
・名前考えるの面倒
・普段から「名無し」でやってるからそれで良いと思っている
・非難する人間が名前出す必要あるの?
・単純に名前出したくない
こんな感じでしょうか。

まぁ、匿名での批判はするんじゃないと言うのは、正直余り高圧的に言われると良い気がしません。
「そこのお前、制裁してくれるから今すぐ名を名乗れ!」と言われているようでそれもまた不快です。
(中学の時にえらそうに退屈な説教して満足げな教員(説教の内容は忘れた。但し、かなり当時の私からしてみればどうでも良かった内容のはず)に「退屈な奴」と言ったら「名前とクラスを言いなさい!!」と噛み付かれたっけなぁ…。自分に非も感じなかったし、名乗って利益も無さそうだったので名乗りませんでしたけど。懐かしい思い出です。二度と遭遇したくない体験ですが)

まぁでも、匿名だろうが何だろうが非難すると言うのは要は後考えずに言いたいことを言い、優越感に浸りたいのだと。匿名の場合敷居が引きだけです。

非難は相手のためではなく、自分の不満だとか不快感だとかを相手にぶつけて優越感とか満足感に昇華させたいのだろうと思います。私の昔話の例もそんな例ですしね。

実社会でもやってしまいがちな「わかりきった説教・非難」と「ネットでの匿名非難」についてはこれで終いにして最後に少しだけコンテンツ作者に対する非難について。

正直、批評は兎も角非難はやって欲しく無いですね。
殊に生産性の無い罵倒は
非難して優越感浸りたい人はこの記事とか読んで欲しいところです。正直、ボロクソに非難する人間相手にコンテンツ作成したい人間なんてそうそう居ません。居るとしたら余程の自信家か、ただのマゾです。

気に入らなきゃ見なければ良いのです。それだけです。

なので、批判をするなら生産的に。非難は相手が反省していない時だけにしましょう。

それで充分だと思います。

進化について

算術師です。

 今晩中に2つ3つエントリを起こそうと張り切っていますが、実行可能かどうかは結構微妙かもしれません。

まぁ、今晩を8日の夜明けまでに拡張して、何とか有言実行としたいところです。(この文章は10時ごろに書き始めました)

 



さて、今回のお題は今まで散々取り上げる取り上げると言っていた進化について。割と説明文くさいです。

進化を体系付ける、所謂進化論については現在でも諸説ある状態です。

進化・進化論と言えばダーウィン が有名です。ダーウィンの進化論は形質の有利不利が生存率の差を生み出し、形質が変化して行く、と言うものです。

これと遺伝学上の発見である突然変異が組み合わさってネオダーウィニズム です。この理論は何故形質が保存されるのか? 何故形質の違いが発生するのか? を説明する材料としてそれぞれ遺伝子の存在と遺伝子の突然変異を挙げた物です。一般に進化論といえばこれを指すと言っても過言ではないと思います。
まぁ、相変わらずミッシングリンクは出て来ない訳ですが。

さて、この他にも色々異説はあります。例えば、ラマルク が主張した進化論は獲得形質の遺伝を盛り込んでいます。 獲得形質と言うのは、後天的に得た形質のことです。例えば生まれつき体の弱い人が体を鍛えた結果丈夫な体を得たとすれば、その丈夫な体は獲得形質です。

遺伝子が突然変異するならまだしも、獲得形質が遺伝できる訳が無い。大体どうやって獲得形質が遺伝形質になるんだ。と批判されてこの説は一旦緒釈迦になりました。最近DNAに関する研究が盛んになって来たお蔭で遺伝子の発現(要するにこの細胞ではこの蛋白質作りますよ、といった指示スイッチのオン・オフのこと)に後天的な要素が関与していることが明らかになっています(これに関する研究をエピジェネティクスと言うそうです)。これが獲得形質の遺伝要因になっているのではないのか? という説もあります。こう言った遺伝子研究を基にした修正版ラマルク進化論の事をネオラマルキズムと言います。

とは言え、結局獲得形質の遺伝は一部の例外を除いて認められていません(退化(最近は退縮と言うそうですが)に関しては獲得形質が遺伝することが完全に認められている)し、単純に同一環境に居るからそうなるのだと言う場合も多いと思います。

他には何故か有名な仮説にウィルス進化説があります。小説とか漫画で稀に取り上げられる仮説でもあります。要約してしまえば、進化の原因となる遺伝子の書き換わりはレトロウィルスが侵入することで発生したのではないか? と言う説です。
確かにヒトのDNA内にはレトロウィルスの物と思われる配列が残っているそうですが、果たして全ての進化がウィルスによって引き起こされるのか? と言われれば難しいかもしれません。

更に他の理論としては中立進化説があります。これは、生存には致命的ではないような小さな変異の積み重なりで大進化が達成されるという考えです。

まぁ、その他にも総合説・先行加速説・断続平衡説等があるようですが、文章量が膨大になるので省略します。このページ を見るとそれなりに解説されているようですので、読んでみると良いと思います。

DNAと遺伝子に関してはまだまだ研究の余地が沢山あるようで、正直書き出してみた物の手に余ると言った感じです。私の進化に関する個人的な見解については次回以降に述べたいと思います。

 





2004 04 08 8:15の加筆修正

本文の無い広告コメントを削除しました。

中々しつこい風邪です。

算術師です。

風邪の治りが凄く遅いです。
まだげほげほ言ってます。

 


 
お知らせ
さて、10の質問を新たに回答してくださった方がトラックバックで名乗りを上げてくださいました。

みちアキさん (回答記事

改めて回答に感謝させていただきたいと思います。



今回も見直しの余地を提供していただきました。
みちアキさんの回答 より、回答させたい内容(各問題の表題)と問題文がずれてるのではないかとのご指摘でした。

正直、一部の問題は仰るとおりですとしか言いようがありません。私の想像力の限界でした。また同じような企画を練るときには練り込みと見直しに力を入れて行きたいと思います。

同じくみちアキさんの回答 より、並行世界が「何によって」分岐するかも非常に興味深い問題だと思います。これについてはエントリ立てて考えて行きたいと思います。



久しぶりに書きたいことが沢山ありますので、今晩中にもう2つ3つエントリを起こしてしまいたいと思います。