算術師の、何だかそんなもの。 -6ページ目
<< 前のページへ最新 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6

政治と思想について思うこと

算術師です。

一晩明けて、病院にも行き体調は大分ましになりました。

ちょっと問題のある記事(3月3日付タイトル「衝撃の事実」)を削除しました。
自己顕示に過ぎないと思ったのが削除理由です。




さて、今回は前回の予告通り私の政治に対する考えなぞを語りたいと思います。

一言で言ってしまえば政治に思想は不要である、と考えます。言い換えれば実利主義、でしょうか。少なくとも左翼だの右翼だの国家体制がとある思想に立脚しなくてはならないと言う考えは欠陥があると思います。要は皆が妥当な範囲で貧困を免れ、妥当な範囲で公平性が維持でき、妥当な範囲で幸福であればそれで良い、とそう思います。

我々が見るべきは思想ではなく、政治体制でもなく、社会の繁栄です。
逆に言えば、食べる物に困らず、公平性が維持でき、不幸で無いなら政治思想などどうでも良いのです。極論言えば、独裁だろうが議会制だろうが、資本主義社会だろうが共産主義社会だろうが前述の条件を満たせるなら何でも構わない、とそう言うことです。社会を繁栄させる施策が良い施策であり、良い思想なのだと思います。まぁ、長期的に見て行き詰まりが予測される場合は短期の繁栄が約束されていても問題であるとは思いますが。

どうも左翼右翼の論争では極端な人たちはまず思想ありきな状態で結論から理論を誘導している気がします。結論ありきで排撃するのは、正直不毛だといわざるを得ません。




私の感想についてのご意見ご感想、または政治思想についての議論がしたいという方はコメント欄へ書き込みをお願いします。




同日 22:25 の追記

私の考えも、所詮は思想なんですよね、実は。
思想に文句つけておきながら、結局その見解も思想の一種…難しい物です。

個人の責任について思うこと

算術師です。
どうやら風邪を引いてしまったようです。
ついでに耳掻きで外耳の壁面をがりっとやってしまったらしく、耳から浸出液が…と、かなり楽しい健康状態です。
今は粗方沈静化したのですが、方から肘にかけてが妙に痛いです。

明日にでも病院行ってきます。




正しさの基準についての問題提起、議論をしてやろうと言う奇特な方は27日の記事 に引き続きコメントお願いします。
勿論、コメントから派生した議論について思うことを述べたり、感想コメントを書いたりも歓迎です。

このBlog に便乗して立ち上げたBlogですが、オリジナルのコンテンツが軌道に乗り始めたのは非常に嬉しいところです。

…コメントに頂いた助言に倣って出張書き込みなんぞするべきかな、と思ってはいますが何処に如何な書き込みをしたのもやらと目下思案中です。アクセス・コメント共に活発なのは私の知っている範囲ではJSF. さんとかR30 さんとか旗旗 さんな訳ですが…激しく芸風違う気もします。と言うか、皆様戦闘民族な気がします。

まぁ、私が単純に押しが弱いだけなのかもですけど穏健派として生きていこうかと思います。
思想傾向は違いますが数学屋のメガネ さんとか現代思想の泉・社会哲学 さんとかに見習うべきところがあるのかも、と。
ちょっと衒学的ではありますがね。




さて、と。今回取り上げたいのは個人の社会的な責任です。

まぁ、何でこんな話題になったかと申しますと、先のアクセス数増加計画練ってた最中にR30さんのBlogこの記事 が目に止まりました。これについての詳しい状況説明はSNMR さんのこの記事 を見ていただくとして…と言うと例によって身も蓋も無いので纏めますと、とある人気Blogが、突如何の告知もなく商業企画を始めたり、Blogの内容を書籍化したりと事業展開し始めてしまいそれを原因に揉めてしまった、とそんな感じです。

さて、先に紹介した2つのBlogさんでも取り上げられてますが、多数の読者の居るBlogともなると読者への影響も大きくなってしまうので、Blog主さんは個人としての行動を制約されてしまいます。Blog主さんは影響力を持つと同時にBlogの読者から行動を半ば縛られる状態にあるわけです。

この問題は、科学者は政治的な責任があるか? といった問題にも非常に近しい物があると思います。例えば、
ある科学者が居たとする。更に、この学者は新兵器(非人道的なものであるとする)を開発する技術ないしそれを支える理論を持っているとする。この学者が軍に新兵器の開発を依頼されたとき、どう返答すべきだろうか?
こう言う問題ですね。丁度大統領に原爆の開発を進言したアインシュタインの苦悩なんぞを考えながら考えると良いかもしれません。
寧ろ、そっちの方が例題として適切かもしれませんね。

個人個人は社会に依拠して生きています。ですから社会に対して影響力を行使する(或いは結果的に行使してしまう)場合には責任が生じるのではないか? また、社会に悪影響を及ぼした場合、社会的に罰されるなり批判されるなりするべきなのではないか? と、そう言うことですね。

結論を言ってしまえば、この問題は線引きできないと思います。

私たちの生きる社会は複雑な存在です。社会は影響の予測できるいくつかの例外(明らかに犯罪とみなせるものや、落ち度が明確に予測できるもの)を除いて、基本的に自分の行動に対する影響の予測が難しいものですから、これに責任を求めるのは難しいでしょう。そして、社会が恒常的であるが為に多くの人は自身のの影響力を低く見積もり気味です(だから私一人やらなくても…となるわけですね。これがモラル崩壊の遠因な気もします)。

更にいえば、社会への影響の原因は非常に見積もりにくいです。例えばBlogでの論争の火種はBlog主なのか、煽った読者なのか…正直、どちらとも言えるのが実情ですしね。多くの人は気付いたら渦中に居た、といった風では無いでしょうか?

また、何を社会に対する悪影響とするかも非常に問題です。また、社会が要求している内容が当人にとって正当であるかも実は問題だと思います。例えばこんな問題になるでしょう。
ここにある子供が居るとします。彼(彼女でも良いが、文字数少ないので彼で統一)は所謂優等生で、両親にも優等生であり続けることを期待されています。彼は優等生であり続ける為に非常な努力をしていますが、同時に優等生であり続けることに疑問を感じています。さて、彼は優等生であり続けなくてはならないのでしょうか?
こう聞かれれば大半の人はそうでは無い、と回答しそうです。まぁ、問題が凄くずれているような気もしますが。兎も角、社会の批判や要求も必ずしも本人の利益にならなかったり(批判対象の利益は考慮されないことも多いですから)、的外れだったりするわけです。

では結局どうするのか? 非常に難しいのですが、多くの場合では何が妥当であるとも定義できず、どのような影響が個人の行動から発生するか不明なので、よほどの例外が無い限り個人の判断に外野が口を出すべきではないと思います。例えどれだけ影響力があろうとも、周囲がどれだけ当人の行動がこうあるべきだと言っても、結局は個人は個人です。個人の行動は個人が吟味するほか無いと思うのです。その為にも、もっと社会的な責任とは何かについて考え議論がなされるべきではないか、と思います。

まぁ、しかし…人の行動を『かくあるべし』と言う人々に一言。あなた方が正しいと思っているその人のあるべき姿は、その人から見れば酷く理不尽な物かもしれません。




モラルについてや思想については色々議論すべきところがあると思うのですが、1つのエントリ内で複数の議論をするのは望ましくないと思われますので別の機会に。出来れば今週中に意見を提示したいところです。
まぁ、そもそも今回の問題提起が複数の問題を同時に扱った感はありますが。

正しさってなんだろう?

算術師です。
更新滞って申し訳ありません。ちょっと更新でき無い状態でした。

アクセス状況が2人/日とかですが、もうここまでいくと開き直って好きに書いていきたいと思います。
先日の記事にて正しさの基準の正しさはどうやって保証するのか?というある意味凄く哲学的で難しい問題にチャレンジする破目になってしまったのですが…まぁ、私なりの考えを述べてみようと思います。

さて、私の考えなのですが極論言ってしまえば妥当かどうかの問題はありますが、

基準の正しさは保証できない。

これに尽きます。
まぁ、身も蓋もありません。

正直、凡ての基準はその基準の示す内容は正しいとするという定義なのだと思います。基準自体が正しいと言うよりは、その基準が運用されることで正しさを獲得していくと言う方が近いのではないでしょうか?

例えば殺人は悪であるという基準を用意します。

この基準はそれ自体では何の拘束力もありません。人殺しは悪いことだ、とどれだけ言っても凶器を構えて殺す気満満な人相手には説得材料に大してなりません。向こうはそんな物どうでも良いと思ってるわけですから。

この説得が有効になるためには相手側もその基準を共有しておく必要があります。要するに殺人は悪であると広く認識され、尚且つそれが罰される環境が必要になる、と言うことです。

間接的には信じている人たちが保証していると言えるのかもしれません。

ちょっと纏まりが悪いですが、皆さんの意見をお聞かせいただきたいと思います。

議論についての議論を始める。

さて、ある東大生の一日 のBlogさんはどうやら終息した模様。まぁ、関連Blogの一種だったこのBlogも人の入りが悪くなってきました。

まぁ、更新しろ 話はそれからだと言われそうですが。
それはそうと、このAmeba Blog、使い勝手が今一微妙です。いや、私がどん臭いだけなのかもしれませんが、記事を書き終わった頃には自動でログアウトされてしまってます。…遅筆なんでしょうね。多分。

まぁ、遅筆な人用に対策(ログアウト時間設定できるとか)してくれれば良いんですがねぇ…微妙でしょうか。

さて。今回は議論で必ず問題になる、意見の正しさ。これについて個人的な意見を述べてみたいと思います。




さて、正しいとはどの様な状態なのでしょう?
色々基準があると思いますが、大体こんな感じでしょうか。

1.検証・確認が可能である
2.何かの基準と比較して逸脱が無い

まず1.について。
これは理論の正しさ(主に自然科学)の正しさの根拠ですね。
○○は××であると推測される。これは実際に検証できるので正しい。
そう言う正しさです。但し、この正しさは近似的な正しさであるので例外の発見や新しい理論体系の出現により否定されることもあります。

まぁ、ネットの議論でソースソースと言う人たちは、この種の(つまり1.に類する)正しさを求めているのでしょう。まぁ、要するに
○○は一般的に××と見られていると推測される。これは△△にて同様の言説があったので間違いない。
と、そんな風に示したい或いは示して見せろと、そう言うことなのでしょう。

続いて2.について。
これは色々な例がありますね。例えば「日本語が正しくない」とか。
これはどう言う意味かと言いますと、日本語の正しい文法から見て逸脱しているということですね。

まぁ、この例で言えば正しい日本語文法の正しさは誰が保証するんだ?宗教とかなら神が正しいとは誰が保証するのだろうか?といった問題を生み出してしまう訳ですが。
これについては議論価値のある問題だと思っていますので、後で叩き台用の記事を書こうかと思っています。

基準が明確(定義づけが詳細にされている)物ならそうでもないんですけど、
但しそう言うものは実は○○を××と定義するとしてるだけだったりする(例えば「定義」は「ていぎ」と読む等)ので実はお約束なだけで正しいとか正しくないとか関係ないんじゃないか、と思ったりします。




さて、議論と言うのはそもそも私はこう言う意見を持っているとか私はこの意見に同意するとかこの意見は正しいとは思えないとかいった事を表明したうえで

ではどの意見が最も妥当か?

と言うことを考える場であると理想論的には思っています。

まぁ、寡聞にしてそんな議論がネットにて行われている例を知りませんが。出来ればそんな環境の一つにこのBlogがなってくれれば喜ばしい限りです。

先日の用語説明。

算術師です。

先日の記事を補足しておきます。浅学非才の身ですので、不足な点はご指摘ください。
特に数学系詳しい方はご教授をお願いします。
読み物になるように、ちょっと歴史的なお話も多いですが、最後までお付き合いいただければ幸いです。




まず、数学的な予測不能性について。

数学的に予測不能性が最初に予見されたのはポアンカレという数学者が3体問題に挑んだ結果、3体問題を初めとする多体問題は数学的に簡単に記述できる解が存在しない事を明らかにしました。
彼は多体問題がカオス的な(初期値に依存して結果が大幅に変わる・長期的な予測が困難であるなどの性質を持ちます)性質を持っていると考えました。

まぁ、結局実証は非常に難しかったのでコンピュータの誕生を待つことになります。

1960年代にローレンツと言う気象学者が方程式で気性の変動をモデル化しようとしました。コンピュータを用いたシュミレーション計算できるように方程式を提案し、それを可能にするプログラムを製作しました。
あるとき普段6桁の精度で計算していたデータを3桁の精度で計算してみました。すると、1週間後の予想天気図は全く異なる物になってしまいました。ここから更に研究の結果、天気は初期値に鋭敏で(初めの値が少しでも違うと結果が大幅に違う)、予測不可能性を持っていることがわかりました。

天気予報は外れやすい・当てにならないといいますが、当てにならないのは必ずしも予報がいい加減だからではなく、天気を予想するにはこの予測の難しい方程式系を解かなくてはならないという問題があるからなのです。

此処から最近話題のカオスとかフラクタルとかそう言ったものが出てくるのですが、探し回った結果丁度良い資料がありましたので掲載させていただきます。ナレッジ・サイエンス さんのこの記事 あたりがこの日記よりより詳しく、教育的だと思います。

正直、前半書き終わり際に見つけてしまって…この記事見といてくださいね、と書けばそれでOKだったんじゃないかなぁ…と後悔してます。フラフラと見て回った結果見つけたサイトなのですが、かなり良く出来ていると思います。




さて、話は変わりまして複雑系について。 これについても同じくこの記事 やらこのページこの記事 辺りをご覧下さい。

…というと実も蓋も無いので、簡単に私なりに纏めます。

世の中と言うのは複雑な物です。多数の要素が存在し、それが相互に作用してごちゃごちゃになってしまっています。

旧来の科学(還元論)ではそれを個々の要素に分解し、個々の要素の働きを調べて完璧に纏めれば複雑化しても理解できるようになる、というスタンスを取ってきました。要するに部分部分の和が全体になる、とそう言う考えかたな訳です。
しかし、そのような手法を受け付けないものは世の中沢山あります。
例えば人体などが良い例だと思います。

細胞の一つ一つの振る舞いを詳しく調べても、全体としての人体の機能は見えてきません(勿論、細胞の振る舞いについての研究が無意味だと言っているのではありません)。寧ろ細胞と細胞の関係や、物質のやり取りが人体を構成していると言えると思います。正直、細胞単位に分解しては人体・人間としての振る舞いを研究することは非常に困難です。

其処で、人体を一つのシステムと見做し(つまり人体を一つの複雑系と見る)、そのシステムの各要素(この場合細胞)がどのようなやり取りをしているかについて研究するべきではないか? という考え方が複雑系に基づいた考え方です。 まぁ、分析すること=科学である→科学者は分析的なアプローチしか出来ない とお思いの人 もいらっしゃいますが近年の科学はそうでも無い、ということを理解していただければ幸いかな、と思います。

ではでは、今回はこの辺にて。次辺り何か議題提供でも出来れば良いかなと思います。




今回お世話になったページ・参考にしたページ

ゑれきてる
http://elekitel.jp/elekitel/

ゑれきてる付属用語集 http://elekitel.jp/elekitel/sci_talk/cont98/physics/keyword.html

複雑系とセルオートマトン
http://www001.upp.so-net.ne.jp/suzudo/

ナレッジ・サイエンス
http://www.kousakusha.com/ks/index.html

と言う訳で、纏め。

さて、問題点を整理しときます。事の発端は前述のBlogの人 がとある読み物ページに対するコメントの中で「アフリカは貧しく、虐殺も多かったが共産主義は流行しなかった(要点のみ要約)」と主張したところ、ある人 が「アフリカで社会主義は流行した。証拠は以下の通りである(同上)」との議論を行ったことに端を発します。

まぁ、議論の経緯は此処 に譲る(相互に人格批判に終始してしまって、議論できて無い)こととしまして、議論の問題となった「アフリカは何故貧しいか」は考えるに値する問題であり、改めて考えることの重要性を感じました。

そして、議論の場を私も作ってみたいと思いこのBlogの開設に至った訳です。 その意味ではBlog主と議論をしていた皆様及び関連各位に感謝したいと思います。




さて、折角なのでアフリカが何故貧しいのか について掘り下げていきたいと思っています。 まぁ、物事の原因を確定することは非常に難しいのですが、寄与率の高そうな原因は以下の通りだと思います。

 内戦の継続
 経済政策の失敗
 無策な土地開発
 対外投資の問題

順に説明していきます。 まず、内戦の継続について。アフリカは非常に内戦が多いです。これは植民地時代に分割統治を行うために部族間の抗争を利用したことも原因の一つであると言われています。
更に言えば、宗主国からの独立運動などで紛争も絶えませんでした。関係ないですが、敵の敵は味方方式で共産主義も広まったのは確かだと思います。
このような状況は、インフラは破壊され、労働者は国外に流出し…と、国の資産を食い潰していく状態に他なりません。この為、国力を食い潰して行き、干乾びてしまうのは当然と言えるでしょう。

次に経済政策の失敗について。独立後のアフリカ諸国は基本的に開発独裁の形を取ることとなりました。製造業を中心とした開発を元に、経済発展を目指したのですが、製造業を満足に行えるだけの人的資源(十分に教育された労働者)が無かったために頓挫してしまった場合が多いようです。
更に言えば、農業関連の施策を怠ったことで、食糧の自給も困難になりました。

無策な土地開発の結果は、砂漠化などの環境問題にもなっています。これについては言及しなくても良いかもしれません。

最後に援助の問題について。国際的な援助は、内戦の終結時に多額の援助が与えられ、経過と共に額が減る傾向にありますが、援助を最も必要とするのは内戦終結後数年経過の時点のようです。この為、今までの援助形態では経済発展に望ましくない援助であるとも言えるようです。




さて、先のBlogでも話題になっていた共産主義ですが、共産主義は資本主義と同じくらい経済破綻を引き起こしやすい社会システムであると言えると思います。

そもそも、(資本主義での)経済はボトムアップに構成された存在です。
多数の販売者と購入者が、同時に、尚且つ複数の取引を行うことが積み重なって、複雑な関係を生み出しています。
数学的にモデル化できれば、典型的な複雑系だともいえるでしょう。当然、多数の購入者と販売者が好き勝手に取引するのですから非効率や富の集中も発生します。
共産主義の計画経済は、これを上層部が予め最適と思われる計画を設定し、非効率や富の集中が発生しないようにすることを目的としています。

しかし、少なくとも現在の我々には、国の経済と言ったレベルの詳細な最適化問題が解けるわけでも、完全なシュミレーションが出来るわけではありません。寧ろ、多くの複雑系は予測不能であり(これは数学的に証明されています)、バタフライ現象など不可解な現象が多数発生します。これについては、後日にでも述べたいかと。

このような見地は、近年の計算機技術の発達に伴って見出されたものなので、当然共産主義には取り入れられていません。まぁ、共産主義の成立が19世紀なので仕方ありません。兎も角、予測不可能な物を予測可能であると判断した上で予測してそれに則って経済を運営しますので、当然予測どおりにいかない最悪場合経済が破綻します。
また、上層部が政治的な観点から意図的に予測を読み間違えても、やはり同様です。

更に言えば、下から積み上げるように出来たシステムと同じような振る舞いを上から構成して行くのは非常に困難です(と言うより、ある程度以上複雑な物になると出来るのかどうかもわかりません。例えば脳とか)。経済がそのように出来ている以上、上から構成して行って安定した経済システムを構成・運営するのは非常に難しいといえるでしょう。




…徹夜明けの頭で何だか寝ぼけながら書いてるので、正直内容が妥当な自信がありません。不備ありましたら指摘お願いします。

2005-02-21 リンクぶっ飛んでたので修正しました。

さて、開設してみる。

どうも。算術師です。

勢いで開設してしまったものの、何を書くやらな状態です。

…嘘です。

ある東大生の一日なるBlogにて繰り広げられる論争見てて面白そうなのでBlog開設してしまいました。

まぁ、政治思想に限らず、色々な事について議論できる場になれば良いなとおもいます。
<< 前のページへ最新 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6